花上野誉の石碑(読み)はなのうえのほまれのいしぶみ

改訂新版 世界大百科事典 「花上野誉の石碑」の意味・わかりやすい解説

花上野誉の石碑 (はなのうえのほまれのいしぶみ)

人形浄瑠璃。時代物。10段。司馬芝叟(しばしばそう),筒井半二,亶侯多蔵(たんこうたぞう),玉木筆二による合作。ただし,多蔵,筆二は,8,9,10各段の増補作者。通称《田宮坊太郎》。角書〈金毘羅利生記〉。1788年(天明8)8月(正本刊記による)江戸肥前座で,七段目まで初演。半年後,89年(寛政1)2月またはその少し前に,対立する江戸薩摩座で,八,九,十段目が増補再演された(増補版正本の刊記による)。1641年(寛永18),丸亀の田宮小太郎が,江戸で柳生飛驒守に剣を学び,親の敵を討ったという事件に,金毘羅権現(こんぴらごんげん)の霊験談を合わせたもの。足軽田宮源八は,丸亀の若殿に服薬させた功によりとりたてられるが,師範森口源太左衛門に暗殺される。源八の一子坊太郎は,志渡寺に預けられ,敵を油断させるための偽啞(おし)になっている。坊太郎の叔父田宮内記は,森口が源八を討った証拠をつかむ。坊太郎の乳母お辻は金毘羅宮に祈りをこめて自害する。坊太郎は金毘羅権現の霊夢により,江戸へ出て剣の技をみがき,ついには敵討に成功する。1753年(宝暦3)7月大坂三枡大五郎座(角の芝居)で上演された歌舞伎《幼稚子敵討(おさなごのかたきうち)》などを受けて成立した64年(明和1)7月大坂竹本座上演の人形浄瑠璃《敵討稚物語(かたきうちおさなものがたり)》の改作。四段目の〈志渡寺(しどうじ)〉(歌舞伎では〈しどでら〉という),坊太郎が母の遊女其朝(きちよう)と再会する七段目の〈品川〉が中心で,ことにお辻の演技眼目となる〈志渡寺〉は,たびたび上演される。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「花上野誉の石碑」の意味・わかりやすい解説

花上野誉の石碑
はなのうえのほまれのいしぶみ

浄瑠璃。時代物。 10段。司馬芝叟,筒井半二合作。天明8 (1788) 年7段目までを江戸肥前座初演。翌年薩摩座再演の際,3段が追加された。寛永 18 (1641) 年丸亀生駒家の剣士田宮源八の子小太郎が父のかたき堀源太左衛門を討った事件に,金毘羅権現の利生記を加え,浄瑠璃『敵討稚物語 (かたきうちおさなものがたり) 』などの先行作をふまえて脚色。田宮坊太郎の乳母のお辻の忠誠を描く4段目「志渡寺 (しどうじ,しどでらとも) 」は,大夫,三味線ともに力を要する大曲として知られ,明治期の三味線の名手2世豊沢団平はこの曲を演奏中に舞台で倒れ,まもなく没した。歌舞伎でも上演される。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「花上野誉の石碑」の解説

花上野誉の石碑
(別題)
はなのうえの ほまれのいしぶみ

歌舞伎・浄瑠璃の外題
元の外題
花上野誉石碑
初演
文化9(大坂・坂東重太郎座)

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