蕨城(読み)わらびじょう

日本の城がわかる事典 「蕨城」の解説

わらびじょう【蕨城】

埼玉県蕨市にあった城。室町~戦国時代の渋川氏の居城。今日の蕨市役所、和楽備神社付近にあった。同城は長禄年間(1457~60年)ごろに渋川氏によって築城されたとされている。『鎌倉大草紙』によれば、当時の関東は長尾景春の乱や享徳の乱などにより乱れていたことから、将軍足利義政は、九州探題として実績のあった渋川義行を関東探題に任命して騒乱を治め、関東での足利将軍家の影響力を強化しようとした。これを受けて、義行庶子の義鏡を鎮静大将に任命して関東に赴かせ、義鏡・義基親子が渋川氏の本拠地であった蕨に居館を構えたのが蕨城の起源とされている(義行本人は京都にとどまった)。しかし、渋川氏下向によっても関東の混乱は収まらず、応仁の乱勃発の影響も加わって関東は戦国時代に突入した。蕨城の渋川氏は武蔵に版図を広げつつあった相模の北条氏と対立したが、北条勢の攻撃により蕨城は落城し、渋川氏は降伏した。渋川氏は北条方の部将として、引き続き蕨城主にとどまったものの、1526年(大永6)には、扇谷上杉朝興に攻撃されて落城している。当時、城主をつとめていた渋川義基は、そのときどきの勢力に従って北条氏と扇谷上杉氏の間を転々とし、1567年(永禄10)、北条氏の援軍として出陣した上総三舟山で戦死した(国府台合戦)。義基の死後、渋川氏は急速に力を失い、家臣の多くは帰農して新田の開発に従事したといわれる。こうしたことから、蕨城は自然消滅的に廃城となった。16世紀末、関東には徳川家康が入部するが、家康蕨城跡に鷹場御殿(鷹狩の館)を建設した。城跡は現在、その大部分が市街地になっているため、その遺構はほとんど残っていないが、城跡公園には土塁と水堀の一部がわずかに残っている。JR京浜東北線蕨駅から徒歩約10分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報