藤原朝方(読み)ふじわらのともかた

朝日日本歴史人物事典 「藤原朝方」の解説

藤原朝方

没年建仁1.2.16(1201.3.22)
生年保延1(1135)
平安末・鎌倉初期の公家。権中納言朝隆の子,母は朝隆の兄顕隆の娘。三条大納言,堤大納言と号す。永治1(1141)年鳥羽院判官代から六位蔵人となり,弁官などを経て安元1(1175)年参議,寿永2(1183)年正二位,文治4(1188)年権大納言。治承3(1179)年の後白河法皇鳥羽殿幽閉時さえ法皇と音信をとり続けるなど,法皇の近臣として活躍した朝方も『玉葉』では「白物」(愚者の意)と酷評されたりしている。傀儡子「さはのあこ丸」のパトロンでもあり,また能書家としても有名。<参考文献>飯田悠紀子「平安時代の国衙支配形態をめぐる一考察」(『日本歴史』1970年3月号)

(小川寿子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原朝方」の解説

藤原朝方 ふじわらの-ともかた

1135-1201 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
保延(ほうえん)元年生まれ。藤原朝隆の子。母は葉室顕隆(あきたか)の娘。鳥羽(とば),後白河両院政で院庁別当として活躍。安元元年(1175)参議,のち権(ごんの)大納言,正二位。堤大納言とよばれた。源義仲,源頼朝のために2度解官(げかん)されたがまもなく復帰。能書としても知られた。建仁(けんにん)元年2月16日死去。67歳。

藤原朝方 ふじわらの-あさかた

ふじわらの-ともかた

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