跡部郷(読み)あとべごう

日本歴史地名大系 「跡部郷」の解説

跡部郷
あとべごう

和名抄」高山寺本・流布本ともに「跡部」と記し、いずれにも訓を欠いているので、確実な読みは不明であるが、河内・伊勢等の国にあった同名の郷が「阿止倍」と訓じているので「あとべ」と称していたとみて差支えないであろう。この郷の郷域については諸説があり、「日本地理志料」は現在の上田市塩田しおだ地区あるいは小県郡丸子まるこ町地方とし、「大日本地名辞書」は小県郡東部とうぶ町の田中たなか禰津ねつ辺りと考え、「小県郡史」は現小県郡青木あおき村の当郷とうごうまたは丸子町とし、「上田市史」は現上田市の西部、室賀むろが浦里うらさとから、青木村辺りの一帯を想定している。

跡部郷
あとべごう

「和名抄」にみえ、東急本に「阿止倍」の訓がある。「日本書紀」用明天皇二年四月条に、物部守屋が大和から別業のある「阿都あと」に退いたとある。物部氏はおそらくもと跡部郷付近を本拠とし、のち大和へ本拠を移し、この地に別業を置いたのであろう。阿都の地が大和川本流に近く、水運の便に恵まれた地であることは渋川郡の項で述べたが、「旧事本紀」天神本紀には、物部氏の祖饒速日尊が天降る時に供奉した者のなかに「船長跡部首等祖天津羽原、梶取阿刀造等祖大麻良、船子倭鍛師等祖天津真浦」などがあったことを記している。物部の一族がこの地域の水運を支配していたことを反映した伝承であろう。跡部郷の境域は、「河内志」以来、亀井かめい(現八尾市)の周辺の地域とする。

跡部郷
あとべごう

「和名抄」所載の郷。河内国渋川郡・伊勢国安濃郡の同名郷の訓注「阿止倍」「阿度倍」に従う。現武儀むぎ武芸川むげがわ町の南端部にある跡部を遺存地名とみて、同地を中心とした武儀川の流域一帯、通称武芸谷に比定するのが通説である(「新撰美濃志」「濃飛両国通史」「大日本地名辞書」「日本地理志料」「美濃市史」など)。南武芸地区が当郷の中核をなすことは諸説異論はなく、広見ひろみ(現関市)や跡部・八幡はちまんには断片的ではあるが条里遺構も検出されている。「濃飛両国通史」などは南武芸村に加えて東武芸村と西武芸村(現山県郡美山町)を郷域とする。

跡部郷
あとべごう

「和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに跡部とみえる。訓は付されていないが、道円本では河内国渋川しぶかわ郡や伊勢国安濃あのう郡の同名郷に「阿止倍」と訓じ、高山寺本では伊勢国安濃郡の跡部に「阿度倍」と訓じているので、「あとべ」とよむものと考えられる。

跡部郷
あとべごう

「和名抄」高山寺本は「阿度倍」、東急本は「阿止倍」の訓を付す。郷域は現津市の跡部・中跡部なかとべを遺称地とする安濃川中流左岸地域に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の跡部郷の言及

【阿斗桑市】より

…後者の交通上の重要性が高まったのは推古朝以後と考えられるので,敏達朝にみえるこの市の比定地としては前者が妥当と考えられる。前者は《和名抄》河内国渋川郡跡部郷の故地で,大和川,石川合流点と難波のちょうど中間に位置する交通上の要地であり,〈桑市村〉とも称されるごとく人家も多く,大連物部守屋の別業や百済から来た日羅(にちら)の居館もこの地にあったという。769年(神護景雲3)称徳女帝が行幸に際して竜華寺の西の川上に臨時の市を開き,〈河内市人〉を集めさせたのも,近くに阿斗桑市があったことに触発されてのことであり,〈河内市人〉の中には阿斗桑市の市人が多かったと考えられる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」