アチェ戦争(読み)アチェせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「アチェ戦争」の意味・わかりやすい解説

アチェ戦争 (アチェせんそう)

インドネシア,スマトラ島北端のアチェ族によるオランダの侵略に対する抵抗戦争(1873-1912)。19世紀後半のオランダのスマトラ東海岸進出以降,その脅威にさらされたアチェ王国は,トルコ,アメリカ,イタリアと秘密に外交的接触をもった。これら列強の介入を恐れたオランダは,1873年3月にアチェ王国に宣戦布告,侵略を開始した。アチェ王国の領主(ウレーバラン)層はスルタンを奉じて勇戦,4月にはこれを撃退した。しかし同年12月に始まる再侵略においては,戦闘が長引くにつれてアチェ軍の統一が失われ,78年までに王国中心部の大アチェ地方をほぼ制圧されてしまった。オランダの宗主権を承認することで旧権力を保証された領主層も,イスラムに基づくスルタン支配体制の護持を叫ぶ,ごく一部を除いて抵抗を放棄した。しかし,80年代にいたりテウンク・ディ・ティロ(本名シエク・サマン)を中心とするウラマー層がジハードを唱道し,多くの農民をゲリラ隊に組織して大反攻に転じた。また戦闘に追われ流民化した農民を組織し,降伏派領主の権力奪取を図るテウク・ウマルら新興領主層のゲリラ部隊もこれに加わった。こうしてアチェ軍ゲリラ諸部隊は防衛に徹するオランダ軍を約10年間圧倒し続けた。しかしヒュルフローニエらの現地調査に基づき,96年以降積極的攻勢に出たオランダ軍によりアチェ軍は漸次制圧され,1903年にはスルタンが降伏し,抵抗派領主もこれに続いた。それでもなお12年までウラマー層に指導された散発的抵抗が各地にみられた。

 この戦争は,とくに1880年代以降,ウラマー層がジハード遂行を訴える中で,神の教えに忠実なイスラム共同体理想像を提示したことにより,アチェ族にとって反侵略戦争と同時に宗教・社会改革運動の性格をも併せもつことになった。しかし,それはオランダに敗れたため十分な展開をみる前に終息を余儀なくされた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アチェ戦争」の解説

アチェ戦争(アチェせんそう)

北スマトラのアチェ王国とオランダとの間で1873年から1912年まで戦われた戦争。植民地支配の拡大をめざすオランダは,1874年アチェの王都バンダ・アチェを占領したが,アチェ側はイスラーム指導者がゲリラ戦を展開,戦争は長期化した。1903年スルタンが降伏し,12年までに主な抵抗が終焉した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アチェ戦争」の意味・わかりやすい解説

アチェ戦争
アチェせんそう
Achinese War

1873~1904年頃にかけてスマトラ北西端のアチェ王国に起った一連の戦争。王国内の世俗的支配層とイスラム系指導者との間の内紛に,オランダ植民地政庁が介入し,前者と結んで後者と戦った。その結果,王国はオランダに征服されたが,国際関係もからんで,オランダは解決に苦慮した。インドネシアの反植民地戦争中最大のものの一つである。

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世界大百科事典(旧版)内のアチェ戦争の言及

【オランダ領東インド】より

… オランダの支配に対する原住民の抵抗は各地で頻発し,強制栽培制度実施以前にも1825‐30年,ジョクジャカルタ王族の一人ディポネゴロの指導する反乱が起こり,また西スマトラでは同じころイマーム・ボンジョールの率いるミナンカバウ・イスラム教徒の反乱(パドリ戦争)があり,37年にようやく鎮圧された。さらに73年から1912年にかけて,スマトラ北端のアチェ王国に起こったアチェ戦争はオランダ軍多数の投入を必要とし,東インド最大の戦争と言われた。この戦争を境にオランダはジャワ以外のいわゆる外領への実質的支配の浸透に心がけるようになり,農業のみならず鉱産物の開発等にも力を注いだ。…

※「アチェ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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