アニメーション映画(読み)あにめーしょんえいが(英語表記)animated film

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アニメーション映画」の意味・わかりやすい解説

アニメーション映画
あにめーしょんえいが
animated film

それ自体は動かない絵や人形を、わずかに変化したポーズのものと置き換えては、1こま(ときには2こま以上)撮影し、それを繰り返したものを映写すると、動いて見える、一種のトリック映画の総称。つまり、普通の映画フィルムの画像に対応するような、1秒間24こまの動きの分解図を順次撮影すればいいわけである。アニメーション映画の特殊性は、たとえばミュージカル、アクション、コメディ、ミステリーといった区分の一つとして扱われることにも表れている。内容的分類に技法的分類が混じるのは奇妙なようだが、かりに宮崎駿(はやお)の『となりのトトロ』(1988)を、俳優による劇映画としてつくったら、観客に与える印象はまるで違ったものになるだろう。アニメーションの語源にあたるラテン語のanimāreには、「生命を吹き込む、活気づける」という意味があるのだが、分類上の混乱にも、「トリックそれ自体がキャラクターになる」アニメーションの特質があるといえよう。

[森 卓也]

アニメーション映画の種類

アニメーション映画を大まかに分類すると、動画(平面)と、人形アニメーション(立体)に分かれる。

動画

動画には、次のような技法が含まれる。

(1)セル・アニメcel animation 透明なセルロイド板(現在は不燃性のプラスチック系の板)に描き、背景に重ねる。これでつくられる漫画映画は商業ベースにのりやすいこともあって、広く使用されたが、近年、日進月歩のコンピュータが製作システムに導入されてきた。手仕事はアニメーターの動画までで、以後の作業はすべてデジタル化の方向に進み、伝統的なセル画も過去のものになりつつある。

(2)切紙アニメ キャラクターの切り抜きをいくつも用意して置き換えるというセル・アニメ的手法と、キャラクターに関節をつけてポーズを変える人形アニメ的手法とがある。さらにガラス板にのせて逆光線を当てれば影絵アニメになる。千代紙、色セロファンなどを使う場合もある。

(3)ピン・スクリーンpinscreen(またはピン・ボードpinboard) 板面に立てた無数の針に斜めから光を当て、その針の高低を変えると、板面の影絵が白→灰色→黒と微妙に変化する。それで絵を描き、アニメートするという特異な手法である。

(4)カメラレス・アニメーションcameraless animation フィルムの露光済みの膜面を針先で削ったり、着色したりする。フィルム面に直接描く方法で、実験的な個人作家が試みた。

[森 卓也]

人形アニメーション

人形アニメーション(モデル・アニメーション、ストップモーション・アニメーションなどともよばれる)は、その質感、量感が、SF映画やファンタジー映画の特殊効果として生かされる例も少なくない。アニメ人形のモンスターを人間の演技者と合成する方法で、名作『キング・コング』(1933)のウィリス・オブライエンWillis H. O'Brien(1886―1962)を筆頭に、その高弟のレイ・ハリーハウゼンRay Harryhausen(1920―2013)、続いてジム・ダンフォースJim Danforth(1940― )、デービッド・アレンDavid Allen(1944―1999)らが台頭したが、1990年代に入ると、コンピュータ・グラフィクス(CG)による3D(スリーディー)アニメーションが、特殊効果の主流を占めるようになった。竹ひご状の図形が回転するだけのレベルから、長足の進歩を遂げたCG3Dアニメに「生命を吹き込んだ」のは、ディズニー・スタジオのアニメーター出身のジョン・ラセターJohn Lasseter(1957― )で、『ルクソージュニア』(1986)は、2分強の、電気スタンドの親子のユーモラスなスケッチで、そのパーソナリティーがみごとだった。

 人形アニメ特殊効果のフィル・ティペットPhil Tippett(1951― )は、『スター・ウォーズ』シリーズ(1977~1983)や『ロボコップ』(1987)などでは人形アニメ技法を用いたが、『ジュラシック・パーク』(1993)以後、CG3Dアニメの監修者となった。だが、ラセターの『トイ・ストーリー』(1995)も、ティペット担当の『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)も、まだCG独特の無機質な滑らかさが、とりわけ皮膚の伸縮に残っている。これが払拭(ふっしょく)されたとき、コンピュータのオペレーターは、初めてアニメーターとよぶことができるだろう。

 なお、人形アニメーションは、あやつり人形劇を流し撮りした映画と混同されることがある。最近ではデンマークの『ストリングス~愛と絆の旅路~』(2004)がそれにあたる。被写体はどちらも人形なので間違える人がけっこういるから注意を要する。

[森 卓也]

アニメーション映画の始まり

その起源は映画の発明以前にまでさかのぼる。17世紀にドイツの修道僧アタナシウス・キルヒャーAthanasius Kircher(1601―1680)が幻灯(マジック・ランタン)を発明した。もともとキリスト教の布教の道具としてつくられたもので、たとえば、テーブルを挟んで山のような料理をむさぼり食っている男2人の頭が、瞬時にブタとヒツジに変わる。これは種板(たねいた)が二重になっていて、本体に固定した種板には、テーブルと胴から下だけの人物が描かれ、それに組み込まれた左右に滑り動く二連の種板には、1枚には男2人の、もう1枚にはブタとヒツジの首だけが描いてある。これを手早く左右にスライドすると、動いたように見えるのである。この幻灯はやがて長崎から日本にも入り、関西で「錦影絵」、関東では「写し絵」の名で上演。記録によれば、江戸での初公開は1803年(享和3)。説経浄瑠璃(じょうるり)の出語りで『道成寺(どうじょうじ)』などのドラマを展開するという、日本独自のくふうを加味した華麗なからくり芸能である。

 一方ヨーロッパでは、19世紀前半に「ソーマトロープ」「フェナキスティスコープ」などの、目の残像効果を利用した「絵」の玩具(がんぐ)が発明された。1877年にはフランスのエミール・レノーCharles-Émile Reynaud(1844―1918)が「プラクシノスコープ」を発明。さらにそれを投影式に改良して、1892年からパリで興行した。600こま以上のカラー手描きの絵を使用し、上映時間は15分前後であった。映画フィルムを使用しないだけで現在のアニメとまったく同じである。

 だが1895年フランスのルイ・リュミエールによって映画が発明されるや、人々の関心はたちまち「動く絵」から「動く写真」へと移り、レノーの「光の劇場(テアトル・オプティーク)」は数年で姿を消した。映画における「こま撮り」の開祖には諸説あり、1899年から1905年にかけてイギリス、スペイン、フランスなどですでにつくられたとする記録がある。しかし、いま実際に見られるのは、アメリカのスチュアート・ブラックトンJames Stuart Blackton(1875―1941)の『魔法のペン』(1900)以後の数作で、代表作『愉快な百面相』では、黒板にチョークで描いた顔が動いたり(一部を消し変えては撮る)、白紙に黒で描いたり、置き換えて動かしたり、つまり切紙や人形(立体)などの基本的技法をひととおり試みている。『幽霊ホテル』(1907)では、人形アニメの技法で、たんすや机が階段を上り、箒(ほうき)やちり取りが自分で動いてごみを集める。『ニコチン姫』(1909)の合成技術なども含めて、傑出したアイデアの持ち主だったことがわかる。この技法は、フランスのエミール・コールEmile Cohl(1857―1938)によってさらに洗練された。黒バックに白(ネガ映写)の人物が、流動的に変わる状況に対応して千変万化のメタモルフォーゼを見せるユーモラスな漫画で、この2分程度のシリーズは「ファンタスマゴリー」とよばれた。

[森 卓也]

アニメーション映画の展開

アメリカ

やがて漫画映画の本場となるアメリカで、新聞漫画でも人気の高かったウィンザー・マッケイWindsor Mackay(1869―1934)が、『恐竜ガーティ』(1909)を発表した。作者自身も猛獣使いならぬ恐竜使いとして舞台の袖(そで)に立ち、スクリーンのガーティ嬢(?)とかけ合いを演ずるというショーである。

 1914年にジョン・R・ブレイJohn Randolph Bray(1879―1978)とアール・ハードEarl Hurd(1880―1940)が、二人のアイデアを組み合わせ、動画を透明なセルロイド面に描いて背景の上へ重ねるというシステムの特許をとる。これによって、従来の1枚ごとに背景まで描き込むという手数は解消し、さまざまな手法が可能になった。たとえば、フライシャー兄弟Max Fleischer(1889―1972)、Dave Fleischer(1894―1979)は、光学的な合成でなく、実写フィルムを1こまごとに伸ばした上へ動画のセルを重ねるという方法で、漫画と実写の共演シーンをつくった。アニメのサイレント時代はアイデアの黄金時代でもあった。

 1920年代末に才能を開花させたウォルト・ディズニーも、技術のパイオニアである。「ミッキー・マウス」シリーズからは、最初のトーキー漫画『蒸気船ウィリー号』(1928)を生み、短編シリーズ「シリー・シンフォニー」からは最初のカラー作品『花と木』(1932)を世に送った。さらに最初のカラー長編『白雪姫』(1937)のためにマルチプレーン・カメラ(多層式撮影台)を開発した。1940年代以降も、漫画と劇映画の合成、アニメでのシネマスコープと立体(3D)映画の試作、さらに、事務用のコピー機を改良して、動画のセルへの転写を可能にした(現在のテレビ漫画の量産はその恩恵による)。その作風はユーモラスで暖かく、いわゆる「家族向き」であり、技術面での完全主義とともに大衆の好みにぴったりであった。その後1930年代の作家の多くがディズニーの亜流に甘んじたなかで、エロ、グロ、ナンセンスに徹した「ベティ・ブープ」「ポパイ」などのフライシャー兄弟が個性を貫いた。

 人形アニメでは、ポーランド生まれのラディスラフ・スタレビッチLadislav Starewitch(1882―1956)が、ロシアで『麗しのリュカニダ』(1911ごろ)、『映画カメラマンの復讐(ふくしゅう)』(1912ごろ)などで注目されたが、革命による混乱で、多くの映画人と同様フランスに移り、『マスコット』(1934)、『狐(きつね)物語』(1939、長編)などを発表した。人形の緻密(ちみつ)な造型が、少々グロテスクだが、動きの流麗さに驚嘆させられる。

 ハンガリー生まれのジョージ・パルGeorge Pal(1908―1980)は、人形の顔や手足を1こまごとにすげ替えるという手間をかけ、動作を漫画的に誇張する方式を開発、「パペトーン」と名づけた。ナチスから逃れつつ各国を転々とし、1939年にアメリカへ渡り、腰を据えて人形アニメを連作。1950年の『月世界征服』以降、SFファンタジー映画のプロデューサーとなった。

 1940年代、第二次世界大戦の拡大につれて、漫画映画も暴力と狂気の笑いへと移行した。ワーナー漫画の「バッグス・バニー」「ロードランナーとコヨーテ」、ウォルター・ランツWalter Lantz(1900―1994)の「ウッディ・ウッドペッカー」、ウィリアム・ハンナWilliam Hanna(1910―2001)とジョセフ・バーベラJoseph Barbera(1911―2006)による「トムとジェリー」などが、奇想天外な「辛口のギャグ」を競う。なかでもテックス・エイブリーTex Avery(1907―1980)の『呪(のろ)いの黒猫』(1949)を頂点とする一連の作品は傑出していた。

 このころ、スティーブン・ボサストウStephen Bosustow(1911―1981)が主宰するUPA(United Productions of America)は、グラフィック・アート風の造形を取り入れ、動きを省略、制限したリミテッド・アニメーションの旗手として、当時のユーゴスラビアのアニメなどに大きな影響を与えた。1958年以降はテレビ漫画が主流になり、ハンナ&バーベラ製作の『強妻天国(フレッドとバーニー)』『クマゴロー(ヨギ・ベア)』などのシリーズがブラウン管の人気者となった。

 一方、メジャー各社は劇場用短編漫画映画のスタジオを相次いで閉鎖。漫画映画はテレビ用が主流になる。

 1960年代以降は、世界的に、個人作家による多様なアニメーションの製作が活発になったが、ピンからキリまであまりにも多く、持続しない場合もあるため、実情がつかみにくくなった。

 1990年代以降は、一見手描きや人形、切紙風でも実はCGという作品が多くなった。ディズニーも伝統の手描きアニメは事実上20世紀で終わり、フルCGアニメは、ジョン・ラセター(前述)をいただくピクサー社(ディズニー配給)の『トイ・ストーリー』(1995)、『トイ・ストーリー2』(1999)、『モンスターズ・インク』(2002)、『ファインディング・ニモ』(2003)、『Mr.インクレディブル』(2004)、『カーズ』(2006)などがトップをきり、その対抗馬としてドリームワークス社がおとぎ話パロディの「シュレック」シリーズ(2001~2007)で奮闘している。ただし、CG頼みの傾向は、一つ間違えば「ハリー・ポッター」「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなどの特殊効果の類似品になりかねない。そんななかで、ディズニーのアニメーター出身のファンタジー映画の異才、ティム・バートンTim Burton(1958― )が製作した、ヘンリー・セリックHenry Selick(1952― )監督の人形アニメ『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)の流麗な動きと、逆説的なクリスマス讃歌は、特筆に値する。

[森 卓也]

ヨーロッパその他

ヨーロッパなどには優れたアニメの個人作家が多いが、商業ベースにのるものは少ないためCMで生計をたてている。一方、カナダ、旧ソ連、第二次世界大戦後の東欧諸国など、映画製作が国営化された国々では、作家は経営的な悩みはない反面、表現の点で大なり小なり「国営」の枠のなかで仕事を続けてきた。

 フランスにはピン・スクリーンの長老であるアレクサンドル・アレクセイエフAlexandre Alexeieff(1901―1982)がいた。絵画アニメの巨匠ポール・グリモーPaul Grimault(1905―1994)は、彼にとって不本意な形で公開された名作長編『やぶにらみの暴君』(1952)の改訂版『王と鳥』(1979)を完成し、宿願を果たした。近年は、アニメーション映画演出家の高畑勲(たかはたいさお)(1935―2018)が評価しているミッシェル・オスロMichel Ocelot(1964― )の『キリクと魔女』(1998)、『プリンス&プリンセス』(1999)、『アズールとアスマール』(2006)がある。また、シルヴァン・ショメSylvain Chomet(1963― )は、短編『老婦人とハト』(1996)の好評に続き、これも奇妙で皮肉がきいていて温かい『ベルヴィル・ランデブー』(2002)で、日本でも予想を超えるミニシアターヒットとなった。ジャック・タチに心酔しているショメの新作『イリュージョニスト』(2010)は、タチの遺稿のアニメ化だが、作家が作家にあまりほれ込むのは考えものかもしれない。ドイツにはオスカー・フィッシンガーOskar Fischinger(1900―1967)をはじめ、アニメによるアブストラクト作家が目だつ。イギリスのアブストラクト作家レン・ライLen Lye(1901―1980)は、カメラレス・アニメーションの先駆者でもある。

 カナダ映画局のアニメ部門の責任者であるノーマン・マクラレンNorman McLaren(1914―1987)は、『線と色の即興詩』(1954)などの多彩なカメラレス・アニメーション作品をつくりつつ、新進の育成に努めた。レン・ライは彼の在英当時の師であった。そして、ライアン・ラーキンRyan Larkin(1943―2007)のカラフルな『ストリート・ミュージック』(1970)と、キャロライン・リーフCaroline Leaf(1946― )の息詰まるような黒白の『ザムザ氏の変身』(1976)という、対照的な作風に代表される新人の時代を迎えた。その技法も、前者は水彩で紙に直接描いたもの、後者はガラス絵(部分的に描きかえながら撮り進む手法なので、よほどのデッサン力が必要)で、素材も、絵の具、パウダー、油など多種多様。コ・ホードマンCo Hoedeman(1940― )の『砂の城』(1977)は、砂人形のアニメという異色編である。一方、ラジオ・カナダ(SRC)で40代なかばからアニメーションに着手したフレデリック・バックFrédéric Back(1924―2013)は、『クラック』(1981)、『木を植えた男』(1987)、『大いなる河の流れ』(1993)と、エコロジーを主題にした感動作で、国際的な評価を得ている。

 国営色のもっとも濃かった旧ソ連では、児童向けの民話アニメが主流であったが、1960年代から、東欧の逆影響を受ける形で多様化し、素朴な味はやや薄れたが、やがてユーリ・ノルシュテインYuri Norshtein(1941― )という切紙の天才を生んだ。『あおさぎと鶴(つる)』(1974)、『霧につつまれたハリネズミ』(1976)、『話の話』(1979)は、いずれも繊細な技法による豊潤な映像詩で、その作風は劇映画のアンドレイ・タルコフスキーAndrei Tarkovskii(1932―1986)を思わせる。

 人形アニメ制作の中心地だったチェコスロバキアは、東洋的幽玄美の巨匠イジィ・トルンカJiří Trnka(1912―1969)の没後、かわいい縫いぐるみ人形を好んで用いたヘルミーナ・ティールロバーHermína Týrlová(1900―1990)、ガラス人形のアニメで知られたカレル・ゼーマンKarel Zeman(1910―1989)のうち、ゼーマンはトリック劇映画のほうへ進んだ後に切紙アニメ長編『クラバート』(1977)を発表した。

 中国には、萬籟鳴(ばんらいめい)(1900―1997)の長編『西遊記』(1941)という古典があるが、第二次世界大戦後は、水墨画をアニメートした唐澄(タンチョン)(1919―1986)の『おたまじゃくしがお母さんを探す』(1960)が絶品。1991年末のソ連崩壊で、本国はもとより、東欧などの国営スタジオの作家たちは、表現の自由と引き換えに経済的な保証を失い、加えて国自体の内戦による分裂などで、アニメーションどころではなくなってしまった。世界的にみても、傑出した作品を携えて登場した個人作家で、その後の噂(うわさ)を聞かないという例は昔からいくらでもあったが、ますますそういう状況になり、映画史的な流れでとらえにくくなった。そんななかで、ロシアのアレクサンドル・ペトロフAlexander Petrov(1957― )の、ガラス板に直接描き、一部を消しては描き変えて、こま撮りするガラス絵の手法による『雌牛』(1989)、『おかしな夢を見る男』(1992)、『マーメイド』(1997)、『老人と海』(1999)、『春のめざめ』(2006)が、高く評価されている。

 このところ目覚ましいのはイギリスで、CG画像の立体感にとってかわられそうな人形アニメが活気づいているのは、「ウォレスとグルミット」シリーズ(1989~ )のニック・パークNick Park(1958― )が所属するアードマンアニメーションズの活況に刺激されてのことかもしれない。特色は、あくまで主体は人形で、CGは特殊効果にとどめていること。これまでの最高作は、中編『ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ』(1993)だが、長編も『チキンラン』(2000)、『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』(2006)と、高水準を保っている。セル・アニメでは、マーク・ベーカーMark Baker(1959― )の『丘の農家』(1988)、『ヴィレッジ』(1993)が、軽妙な画風で、ムラ社会のいやらしさなどを、いかにもイギリス的に描いている。

[森 卓也]

日本

日本では、1916年(大正5)ごろからエミール・コールの作品などに刺激されて、漫画映画が家内工業的につくられ始めたが、そのほとんどが児童教育映画の範疇(はんちゅう)に入るものであった。政岡憲三(まさおかけんぞう)(1898―1988)の佳作『くもとちゅうりっぷ』(1943)や、大藤信郎(おおふじのぶろう)(1900―1961)の千代紙、色セロハンなどを用いた作品などは、例外的な存在であった。アニメの企業化は第二次世界大戦後で、東映動画は長編漫画を商業ベースにのせ、手塚治虫(おさむ)主宰の虫プロ(現、手塚プロ)は、『鉄腕アトム』などの一連のテレビ漫画で一時代を画した。一方、久里洋二(くりようじ)(1928― )ほかの「3人のアニメーションの会」の実験は、いわば日本でのUPAの役割を務めた。人形アニメでは、川本喜八郎(1925―2010)の『鬼』(1972)、『道成寺』(1976)、『死者の書』(2005)などに描かれた東洋的幽玄美は、国際的に第一級の名人芸であった。

 昨今の漫画アニメを内容的にみると、宮崎駿の『未来少年コナン』(テレビシリーズ、1978)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)、『風の谷のナウシカ』(1984)、『となりのトトロ』(1988)、『紅(くれない)の豚』(1992)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)、『ハウルの動く城』(2004)、『崖の上のポニョ』(2008)などの、ユーモラスななかに人間的な悩みを抱えたヒーローや、人間対自然の相克の、苦渋に満ちたファンタジーが、評価でも観客数でもトップを切っている。一方、その対極にあるのが押井守(おしいまもる)(1951― )で、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、『機動警察パトレイバー』(1989)、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)など、つねにかくありたいとの希求を失わぬ宮崎に対し、理想を信じないというネガティブな情念を描き、『イノセンス』(2004)ではさらに観念的な境地へ踏み込んだ。そこへ今敏(こんさとし)(1963―2010)が加わり、『千年女優』(2001)、『東京ゴッドファーザーズ』(2003)、『妄想代理人』(テレビシリーズ、2004)、『パプリカ』(2006)と、リアルとファンタジーの両輪でエネルギッシュにつくり続けたが、46歳で早世した。

 加えて、山村浩二(やまむらこうじ)(1964― )の、落語を素材にした『頭山』(2002)、『カフカ 田舎医者』(2007)など。昨今人気の高い細田守(ほそだまもる)(1967― )の『時をかける少女』(2006)、『サマーウォーズ』(2009)など。また加藤久仁生(かとうくにお)(1977― )は、『つみきのいえ』(2008)で第81回アカデミー短編アニメーション賞を受賞した。

 こう列記しても、作者も作品もまだまだ限りなくある。アニメーションは、隅々まで作者が支配できるものだから、作り手の性格が如実に反映され、それだけに見る側の好き嫌いも分かれる。たとえば、私の近年の1本は、フランスのコンスタンティン・ブロンジットKonstantin Bronzit(1965― )の短編『地球の果てで』(1999)。とがった三角山地帯の頂きの揺れる家で、人々が超然と暮らしている。サタイア(風刺)ともとれるが、私はナンセンスの極致、久々の漫画映画の快作として大いに笑った。アニメーションは、かくのごとく定義も評価もしにくいのである。

[森 卓也]

『森卓也著『アニメーション入門』(1966・美術出版社)』『山口且訓・渡辺泰著『日本アニメーション映画史』(1977・有文社)』『森卓也著『アニメーションのギャグ世界』(1978・奇想天外社)』『伴野孝司・望月信夫著『世界アニメーション映画史』(1986・ぱるぷ)』『今村太平・杉山平一著『今村太平映像評論5 漫画映画論』(1991・ゆまに書房)』『津堅信之著『日本アニメーションの力――85年の歴史を貫く2つの軸』(2004・NTT出版)』『山口康男編著『日本のアニメ全史――世界を制した日本アニメの奇跡』(2004・テン・ブックス)』『今村太平著『漫画映画論』(2005・スタジオジブリ、徳間書店発売)』『森卓也著『定本 アニメーションのギャグ世界』(2009・アスペクト)』『レナード・マルティン著、権藤俊司監訳『マウス・アンド・マジック アメリカアニメーション全史』上・下(2010・楽工社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例