アメリカの映画製作者で大衆文化事業家。本名Walter Elias Disney。シカゴ生れ。ミズーリ州の農園で育ち,カンザス・シティやシカゴでさまざまな仕事をしながら漫画を学んだ後,1923年,ロサンゼルスに出て兄ロイとともに当時まだほとんど未開拓のアニメーション映画を作る会社を組織,26年にかけて,俳優と漫画を織りまぜた《漫画の国のアリス》《うさぎのオズワルド》などのシリーズを製作した。28年,ミッキー・マウスを登場させた《飛行機クレージー》を製作,同年,最初のトーキー・アニメーション映画《蒸気船ウィリー号》(封切は前作より早い)により,映画事業の鉱脈を掘り当てた。ミッキーは広範な人気を獲得,やがて新聞や雑誌にも進出した。ディズニーはその後,ドナルド・ダックや犬のプルートなども登場する作品を続々作り,37年には最初のカラー長編アニメーション映画《白雪姫》を完成,40年にはストコフスキーの協力を得て世界の名曲をアニメーションにした《ファンタジア》を世に出した。また記録映画にも進出したほか,通常の劇映画でも児童ものを中心に豊富な仕事をした。彼は発明の才に富み,映画にさまざまな新機軸を出して,合計29のアカデミー賞を得ている。55年には,ロサンゼルス郊外に破天荒な遊園地ディズニーランドを開設,これをアメリカ庶民の現世的な夢の世界に仕上げた。そして巨万の富を築いて死んだが,その遺志により,71年にはフロリダ州にディズニー・ワールドが開設された。
ディズニーは生涯,いかにも中西部の中流階級出身者らしいプロテスタント倫理を強調し続けた。彼の作品は奔放な空想を売り物にしながらも,つねに健全な常識を支えとし,だれにも楽しめて教育的効果も期待できるものであることを誇示した。しかも彼は時代を先取りするセンスを身につけ(たとえば当時の映画人としては珍しくテレビも積極的にうけとめた),旺盛な企業精神でもって事業に成功,〈アメリカ的天才〉を身をもって示したといえよう。
執筆者:亀井 俊介 ディズニーの名はアニメーション映画と分かち難く結びついているが,その発展史上に彼が残した功績は次のようなものである。(1)ミッキー・マウスという不滅のキャラクターの創造。(2)世界最初のトーキー・アニメーション映画《蒸気船ウィリー号》(1928)を製作し,絵の動きと音楽・効果音をシンクロさせたこと。(3)世界最初のテクニカラー・アニメーション映画《花と木》(別題《森の朝》)(1932)を製作。(4)絵を何層にも並べて奥行きと立体感のある画面が得られる〈マルチプレーン・カメラ〉を開発。(5)世界最初のカラー長編アニメーション映画《白雪姫》(1937)を製作。(6)世界最初のステレオ・サウンドによる長編アニメーション映画《ファンタジア》(1940)を製作。(7)世界最初の立体アニメーション映画《メロディ》(1953)を製作。(8)世界最初のシネマスコープ・アニメーション映画《プカドン交響楽》(1953)と,シネマスコープ長編アニメーション映画《わんわん物語》(1955)を製作。(9)アニメーション映画のつくり方を大きく合理化させた,ゼロックスによる線画のセル定着法を開発。
ディズニーのアニメーション映画の強みは,ミッキーとその仲間,アヒルのドナルド・ダックや犬のプルートなどによるナンセンス・ギャグ路線と,《シリー・シンフォニー》シリーズと名づけられた音楽を主とする抒情性豊かなファンタジー路線の両面があったことである。《花と木》は後者の路線の一本で,普通の劇映画より2年早く3色式テクニカラーを使用して1931-32年度のアカデミー短編漫画賞を受賞(この年はミッキー・マウスの創造に対するアカデミー特別賞も受ける),その後10年間のアニメーション部門の各賞はディズニーが独占するところとなった。そのころからスタジオ内にアニメーターの養成学校を設立して,技術者を育て,今日のアメリカのアニメーション作家の約9割がここから育つことになる。1937年のクリスマスに,3年をかけて製作された《白雪姫》が封切られて大ヒット。〈ナンセンス・ギャグ〉と〈ファンタジー〉の二つの路線で築き上げた成果が集大成され,その後,幻想的な童話《ピノキオ》(1940),クラシック音楽をアニメーション映画にした《ファンタジア》(1940),空飛ぶ象の物語《ダンボ》(1941),野生の鹿をめぐる叙事詩《バンビ》(1942)など,画期的な長編アニメーション映画を次々に世に送った。戦後も《シンデレラ》(1950),《わんわん物語》(1955)などのアニメーション映画を製作する一方,《宝島》(1950)に始まる《フラバア》(1961),《メリー・ポピンズ》(1964)などの劇映画路線,《砂漠は生きている》(1953)を代表とする動物の記録映画路線を開き,それぞれ成功した。長年の製作による多数のフィルムをもとに,テレビ番組《ディズニーランド》シリーズ(1954-)を放映,はやばやとテレビとの共存共栄を試みている。ディズニーは,草創期のアニメーションを飛躍的に発展させてアニメーション映画の可能性を大きく広げたばかりでなく,アニメーション映画そのものの未来をも予見していたのではないかと思われる遊園地〈ディズニーランド〉建設をその最後の〈作品〉として残して去った,不世出のアニメーション映画作家といえよう。
→アニメーション映画
執筆者:岡田 英美子
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アメリカの映画製作者、企業家。12月5日シカゴに生まれる。19歳のとき、カンザスで切り紙アニメーション映画をつくって破産。1923年ハリウッドへ出て、古ガレージに古カメラを据え、「漫画の国のアリス」「うさぎのオスワルド」などのシリーズをつくるが、人気が出始めたキャラクターを配給業者に奪われるなどの目にあう。やがて「ミッキー・マウス」シリーズの一つ『蒸気船ウィリー号』(1928)を最初のトーキー漫画として発表、大当りをとる。以来彼は一貫して、技術面では革新的、表現においては大衆的であり続けた。
まず「シリー・シンフォニー」シリーズを、劇映画に先んじて三原色カラー(テクニカラー)化し、その第1作『花と木』(1932。封切名『森の朝』)でアカデミー賞を受けた。以後、1930年代の漫画映画部門の賞を連続受賞し、1985年までに受けたアカデミー賞は29回、最多受賞記録である。1937年には、奥行のある画面を得るため、マルチプレーン(多層)撮影台を開発。そのテストを兼ねた『風車小屋のシンフォニー』を、さらに同年世界最初のカラー長編『白雪姫』を完成、漫画映画が添え物の短編ではなく、劇映画同様に興行のメインとしてヒットすることを立証した。1940年には世界最初のステレオ・サウンドによる長編『ファンタジア』を、続いて『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)などを製作。第二次世界大戦の拡大によって海外市場が閉鎖され、彼は経済的に苦境にたったが、『3人の騎士』(1945)では、カラーで最初の、漫画と実写の合成を行うなどの新技法を示した。
戦後は、『シンデレラ』(1950)から『ジャングル・ブック』(1965)に至る、お家芸の長編アニメーションのほか、『おっとせいの島』(1949)に始まる、「編集技術による演出を加味した」動物記録映画シリーズや、『宝島』(1950)に始まる劇映画路線にまで間口を広げた。また、映画の立体化、大型化にも取り組み、1953年には『メロディ』で3D(スリーディー)漫画、『プカドン交響楽』でワイドスクリーン漫画を試みた。さらに、ゼロックスを改良してアニメーターの描画をセルに定着する方法を開発し、現在のテレビ漫画はすべてその合理化システムのうえに成立している。彼はまた当時の映画界がまだ敬遠していたテレビにも積極的で、1954年から、旧作の巧みな再編集による「ディズニーランド」「ミッキー・マウス・クラブ」「ミッキー・マウスとドナルド・ダック」などのシリーズを発表、これらはタイトルを変えて現在も続いている。
ディズニーは、映画を通じて、夢幻的な優しさと自然の厳しさ、ときには悪夢の恐怖などを、独自のユーモアやギャグを織り成してヒューマンにうたいあげた。1955年にカリフォルニアに開園した大規模な遊園地「ディズニーランド」のアトラクションには、大衆娯楽作家であると同時にエンジニア的企業家でもある彼の方法論が生きている。1966年12月15日肺癌(がん)のため没した。その後、1971年フロリダに「ディズニー・ワールド」、1983年千葉県浦安市に「東京ディズニーランド」、1992年パリに「ユーロディズニー」などのディズニー・テーマパークがオープンするなど、その活動は、ディズニー亡きあともウォルト・ディズニー・カンパニーの名とともに継承されている。
[森 卓也]
『クリストファー・フィンチ著、前田三恵子訳『ディズニーの芸術』(1977・講談社)』▽『ボブ・トマス著、玉置悦子・能登路雅子訳『ウォルト・ディズニー』(1995・講談社)』
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(2019-11-21)
1901~66
アメリカのアニメ映画製作者。1920年代以来,ミッキーマウス,ドナルドダックなどのキャラクターを創造し,また『不思議の国のアリス』『ピノキオ』『白雪姫』などの童話をアニメ化して,世界的人気を博し,ディズニーランドを建設した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…セル・アニメの開発も早く,したがって企業化も早かった。その中でW.ディズニーは,アブ・アイクークスの協力を得て永遠のキャラクター,ミッキー・マウスを創造,その主演第4作《蒸気船ウィリー号》(1928)が世界最初のトーキー・アニメとなった。ディズニーはまた,世界最初のテクニカラー(三色法)によるアニメーション《花と木》(1932。…
…スワンソンが入浴シーンでちらりと胸を見せたのが評判になり,また幻想シーンでは古代バビロンの〈官能にむせかえる〉栄華のイメージが描かれて,デミル好みのスペクタクル史劇の片鱗をのぞかせている。なお,この映画の広告のデザインをしたのは当時18歳のウォルト・ディズニーであったといわれる。【柏倉 昌美】。…
…アメリカの代表的な遊園地。W.ディズニーがカリフォルニア州アナハイム(ロサンゼルスの南東約40km)に建設したもので,1955年に完成。総面積73.5ha(うち30haがテーマパーク)。…
…アメリカの映画製作者W.ディズニーが1934年にアニメ映画に登場させたセーラー服姿のかんしゃくもちのアヒル。ガール・フレンドはデージー・ダックで,ヒューイ,ルーイ,デューイの3人の甥と,アヒル村一番の金持ちでけちなスクルージ・マクダックを叔父にもつ。…
…膨大な編成のオーケストラが,複調や無調による激しい音響をつくり出し,拍子が,3/16,5/16,4/16と小節ごとに変化して複雑なリズム構造を生み出す。ディズニーが1941年の《ファンタジア》の映画音楽としてこの作品を使い,第2次大戦後に,一般のオーケストラの重要なレパートリーとして定着した。【船山 隆】。…
…また《信貴山(しぎさん)縁起絵巻》には,修行僧の托鉢用の器の上に米倉が乗って飛ぶ場面があり,空飛ぶ米倉の目の位置から世間をながめて,米の出し惜しみをする長者や,驚き騒ぐ村人が描かれて,漫画映画のような力がある。《鳥獣戯画》と《信貴山縁起絵巻》には,現代のW.ディズニー以後の漫画映画(アニメーション映画)に共通するおもむきがある。 法隆寺の落書は字を写す作業の筆休めという形で,同じ筆で画を描くところから生まれた。…
…1927年,アメリカのディズニーが生み出した漫画映画シリーズの主人公であるネズミ。登場第1作は《飛行機クレージーPlane Crazy》(1927)だが,公開は2作目の《蒸気船ウィリー号Steamboat Willie》(1928)が最初となった。…
※「ディズニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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