改訂新版 世界大百科事典 「フライシャー兄弟」の意味・わかりやすい解説
フライシャー兄弟 (フライシャーきょうだい)
ポパイ,ベティ・ブープなどの人気キャラクターをスクリーンに生かしたアメリカのアニメーション作家兄弟。兄のマックス・フライシャーMax Fleischer(1883-1972)はオーストリアのウィーン生れ。弟のデーブ・フライシャーDave Fleischer(1894-1979)は一家が渡米後,ニューヨークで生まれた。1900年にマックスは《ブルックリン・イーグル》紙の走りづかいとなり,そこの日曜版の漫画家だったジョン・R.ブレイと知り合い,15年にはブレイのスタジオで,弟のデーブと組んで漫画映画をつくりはじめた。19年,〈アウト・オブ・ザ・インクウェル〉という自作のシリーズ名をとった会社を創立。21年には製作のマックス,演出のデーブに他の兄弟も加えた6人兄弟による〈フライシャーズ・スタジオ〉がスタート。24年に初のトーキー漫画を試作。1926-31年に,オルガン伴奏で上映される《スクリーン・ソング》(1929年からトーキー化)などをつくった。以後,《トーカーツーン》(1930-32)を約40本,愛らしくもエロティックな女の子《ベティ・ブープ》(1931-39)を約89本,エルジー・C.シガーの漫画のアニメ化《ポパイ・ザ・セーラー》(1933-42)を約105本,ディズニーの《シリー・シンフォニー》に対抗した《カラー・クラシック》(1934-40)を約35本等々をつくった。
検閲機関ヘイズ・オフィスから注意されたほどセクシーなベティ,豪快なバーバリズムのポパイなどの強烈なキャラクターに代表されるフライシャーの作風は〈エロ・グロ・ナンセンス〉という表現にまとめられる。しかしその中には,ときとして胸をつかれるような苛烈(かれつ)な愛と哀しみが点綴(てんてつ)され,ユダヤ系作家の人間観がかいま見える。また,デーブが開発した〈ロトスコープ〉(実写の動作をアニメーションにひきうつす方法)をはじめ,扇形のミニチュアの前にセルを立て,移動の背景に立体感を出す方法など,科学好きのフライシャー兄弟が1940年までに取ったパテントは,75にも及ぶという。長編第1作《ガリヴァー旅行記》(1939)は平板なできだが,原作の知名度で観客を集めた。しかしオリジナルストーリーによる長編第2作《バッタ君町に行く》(1941)は,のちに評価が高まったものの,興行的に失敗し,それが兄弟げんかの原因となり,《スーパーマン》(1941-42)を9本つくったところでフライシャーズ・スタジオは分裂,《ポパイ》と《スーパーマン》は,配給会社だったパラマウントのアニメ部門にひきつがれた。
マックスは,かつて門下のアニメーターだったジャム・ハンディのプロデュースのもとで,凡作《赤鼻のトナカイ》(1944)をつくり,1958年には再びブレイ・スタジオへもどって美術部門の主任となり,61年に,安っぽい新作《アウト・オブ・ザ・インクウェル》シリーズを製作した。一方,デーブは,コロムビア映画の動画主任となり,国策アニメ《勝利の歌》(1942)などをつくったのち,1944年にユニバーサル映画へ移り,その後もさまざまな仕事をしたあげく,67年には引退した。なお,ときおりTV放映されるカラーの《ベティ・ブープ》は,70年代にオリジナルの絵を韓国でトレースして彩色した一種のリメーク版である。《海底二万哩》(1954),《ヴァイキング》(1957),《ミクロの決死圏》(1966)等々で知られるハリウッドの職人監督リチャード・フライシャーRichard Fleischer(1916-2006)はマックス・フライシャーの息子である。
執筆者:森 卓也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報