アハド・ハ・アム(英語表記)Ahad Ha-Am

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アハド・ハ・アム」の意味・わかりやすい解説

アハド・ハ・アム
Ahad Ha-Am

[生]1856.8.18. ウクライナ,スクビラ
[没]1927.1.2. パレスチナ,テルアビブ
ロシア系ユダヤ人のタルムード学者,哲学者随筆家。本名 Asher Ginzberg。ゲットー内の上流家庭に育ち,厳格なユダヤ律法を学んだ。しかし,成人するとともに外界に目を向け,すべてのユダヤ人およびユダヤ教の救われる道は離散社会のなかからは生れないとして,当時急激に高まりつつあったユダヤ・ナショナリズム (→シオニズム ) を肯定し,みずからもシオニストとなった。 1879~86年,ウィーンベルリン,ブレスラウ各地を転々とし,86年家族とともにオデッサ移住。 89年『これは道にあらず』 Lo Zeha-Derekhを書き,彼の精神的シオニズムの立場を明らかにした。 96年ヘブライ語月刊誌『ハ・シロー』 Hashiloahの記者となったが,1902年辞職,ロシア各地を旅する。一時ロンドンに住み (1907~21) ,その後テルアビブに定住。そのほかに『精神の法律』 Torah She ba Lev (04) ,『ナショナリズムと宗教』 Al Leumiot ve Dat (10) ,『アハド・ハ・アム書簡集』 Igeroth Ahad Ha-Am (23~25) などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「アハド・ハ・アム」の意味・わかりやすい解説

アハド・ハアム
Ahad Ha-am
生没年:1856-1927

文化的シオニズムの代表的論客。本名アシェル・ヒルシュ・ギンスベルクAsher Hirsch Ginsberg。ロシアのキエフ地方に生まれ,オデッサでアハド・ハアムすなわち〈民族のひとり〉の筆名のもとユダヤ民族の精神的・文化的中心としてパレスティナを建設することを主張し,単なる政治的組織としてのユダヤ人国家の実現をめざすヘルツルらの政治的シオニズムには批判的であった。ロシアのシオニストに大きな影響を及ぼした。
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367日誕生日大事典 「アハド・ハ・アム」の解説

アハド・ハ‐アム

生年月日:1856年8月5日
ロシア系ユダヤ人のタルムッド学者,哲学者,随筆家
1927年没

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