翻訳|colonialism
20世紀中葉にいたるまでの植民地帝国においては,植民地の領有と異民族支配は,当然で正当なことと広く意識されていた。この植民地支配を正当化するイデオロギーの特徴は次のように整理できよう。
第1に,植民地イメージの構成の面からみると,まず,宗主国社会の人々は19世紀中葉以降,アフリカなど植民地化された社会とそこに住む現地人に対して負の価値(〈未開〉〈野蛮〉〈後進〉〈停滞〉),宗主国には正の価値(〈文明〉〈信仰〉〈先進〉〈進歩〉)をおき,その両者を対比するような世界像を共有するにいたったといえよう。たとえば,1851年のロンドン万国博覧会の会場は,イギリスを中心とした世界イメージに沿って構成されており,中央にはイギリスの先進性を象徴する巨大な機械がおかれ,周辺には,世界各地の物産,工芸などが配置された。このような中心と周辺とを対比させた世界像のうえに,植民地での行政や交易にたずさわった人々の断片的で多彩な体験や感情がちりばめられた。この現地体験は,うわさ話,新聞記事,物語,絵画,芝居などで,通俗的な擬似イメージとなって宗主国社会を流通したが,そこでは植民地のイメージは実情を離れて,冒険,性的快楽,富への機会など,宗主国の人々の好奇心と願望を植民地に投射したり,当時の宗主国社会の優越的な価値(〈理性〉〈禁欲〉〈勇気〉など)を裏返した反価値(〈感情的〉〈堕落〉〈臆病〉など)を植民地人の特徴ときめつけることが行われた。
植民地主義の第2の特徴は,植民地支配が植民地化された人々にとっても望ましいものであるという正当化を含んでいた点であり,宗教上の伝道,文明と人道的価値の伝播(でんぱ),経済発展の促進など,さまざまな説得のレトリックが用いられた。もちろん,これらの主張は,19世紀中葉以降のヨーロッパ諸国に根強かった植民地への無関心やヨーロッパ政策の優先など,植民地の維持拡大の政策の障害を取り除くために論争的に喧伝されることが多く,そのために争点や政治状況に応じて主張の内容は変遷しがちであった。その典型は植民地支配を〈白人の責務〉とみなす主張であり,なにが植民統治の目標であるかについては,抽象的で漠然としており一貫性を欠いていた。また,なぜ白人が支配すべきかという説得の仕方も,先発植民地帝国であったイギリスの場合には個々の政策決定に応じておもに実務的な説明のレベルにとどまったのに対して,後発のフランスやドイツでは,より体系的で擬似科学的な装いをもった人種主義が政治過程の表面で目立つことが多かったといえよう。
第3に植民地主義には,自由や平等などの西欧近代の民主主義との間にこえがたい落差がつきまとっていた。植民地支配下では統治の現状と支配者の既得権益の維持のために,現地人に対する抑圧と差別が発動され,その事実を植民地主義によって正当化しようと試みたが,それは,現地の民衆にはもちろん宗主国の多くの人に対して強い説得力をもつわけではなかった。とくに西欧教育を受けた植民地人は,現地社会の指導層の一部となる場合が多かったが,植民統治者の社会生活上の人種差別や官吏登用の機会の不平等などに反発し,西欧民主主義の論理を用いて批判を展開して,諸地域におけるナショナリズムの一つの端緒となった。このように,植民地主義は,自己の否定者となる植民地のナショナリズムを生み出した。
→植民地 →植民地教育
執筆者:中村 研一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
植民地を獲得し、拡大しようとし、あるいは維持しようとする政策あるいは支配の方法、またはそれを支える思想。植民地には、自民族の移住を目的とするものと、異民族を政治的・経済的支配下に置くものという区別がある。近代に入ってヨーロッパ資本主義は海外の植民地を拡大してきた。この植民地の存在が資本主義の発展のための重要な条件であった。植民地支配の方法として、宗主国国民と植民地先住民との風俗習慣の相違、法意識の差違、政治意識の格差などを利用することや、先住民の抵抗に対しては暴力をもって抑えることなどがとられた。
植民地主義ということばは帝国主義と同じような意味でも用いられる。しかし、帝国主義ということばが、独占段階にある資本主義国をさす意味で固定的に用いられるのに対して、植民地主義ということばは、植民地保有国であればどのような国に対しても、比較的に自由に用いられる。しかし、植民地主義ということばは、植民地の独立が国際的に一般的となった現在では、否定的な意味で用いられるようになってきている。
1960年、第15回国連総会は「植民地諸国・諸民族に対する独立付与に関する宣言」を採択し、「外国による人民の征服、支配および搾取は、基本的人権の否認である」ことを宣言し、植民地主義を非難した。こうして植民地主義は国際的にアナクロニズムとなっているが、しかし新植民地主義とよばれるものもこのころから問題となった。
新植民地主義とは、先進資本主義国が植民地主義の新たな形態として採用したものである。これは植民地であった諸地域に名目上の独立を与えながら、実質的に旧来の支配を続けようとする政策であり、とくにアフリカにおいて顕著であった。すなわち、以前の植民地主義を表面的には否定しながら、経済援助などの名目で支配・従属関係を再編成しようとするのである。
[斉藤 孝]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 19世紀に入る前後にはじまり,19世紀半ば以降に本格化したキリスト教の組織的な布教活動も,キリスト教そのものをアフリカに広めようという目的のほかに,教育活動や医療活動を通じて奴隷貿易の罪を少しでも償おうという目的をもっていたことは,ほぼ間違いない。しかし本来善意から出発したはずのキリスト教布教団の活動も,しだいに,そして知らず知らずのうちに,ヨーロッパ植民地主義勢力の水先案内人的な部分を含むようになっていった。実際,19世紀半ば以降のアフリカで最も精力的かつ大規模に布教活動を行った勢力のうち,カトリックを代表するのはフランスであり,プロテスタントを代表するのはイギリスであったが,このことは,きたるべきアフリカ分割の結果,この両国が最も広大な植民地を獲得した事実と符合していて,まことに興味深い。…
… 19世紀,欧米や日本の帝国主義列強はアフリカ,アジア,ラテン・アメリカ地域を植民地,半植民地,従属国として従属下においた。帝国主義列強がこれらの地域を支配する国家的従属の総体は〈帝国主義の植民地体制〉と呼ばれ,植民地領有国による植民地に対する政治的支配,経済的搾取,軍事的隷属,文化的圧迫の体系は〈植民地主義〉と呼ばれる。第2次世界大戦後,1950年代にかけてアジア諸国が独立し,50年代末から60年代にかけてアフリカ諸国が独立したことによって,帝国主義の植民地体制は崩壊した。…
※「植民地主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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