西サハラ問題(読み)にしさはらもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西サハラ問題」の意味・わかりやすい解説

西サハラ問題
にしさはらもんだい

西サハラの独立ないし帰属をめぐる紛争を中心とした問題。北西アフリカの西端に位置する西サハラは、サハラ砂漠の一部を形成する面積約25万平方キロメートル余の小地域であり、古くからアラブ人、ベルベル人王国興亡の歴史の舞台であったが、1884年にスペイン保護領とされた。第二次世界大戦後アフリカの脱植民地化が進むなかで「西サハラの将来」の問題がクローズアップされてきたが、隣接するモロッコは1963年にスペインの西サハラ支配に反対して国連に提訴し、南隣の国モーリタニアも64年に西サハラの一部に対する領有権主張を国連非植民地化委員会に公式に伝えた。他方、国連は1965年以来、スペインに対し関係諸国との協議のもとで住民投票によって西サハラの将来を決定することを求める決議をたびたび採択したが、進展はみられなかった。その後74年にスペインは住民投票を翌年中に実施する意思を明らかにしたが、75年10月に国際司法裁判所は、モロッコ、モーリタニアの西サハラに対する領有権の主張に否定的な勧告的意見を示し、これを不満としたモロッコは11月、35万人ともいわれる非武装市民を西サハラ領内へ行進させ(緑の行進、平和大行進)、その圧力によってスペインは同月マドリード協定により西サハラを二分してモロッコ、モーリタニアに領有させることを認め、76年2月に西サハラから撤退した。しかし同月、西サハラの独立を要求する民族主義グループポリサリオ戦線サハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言し、モロッコ、モーリタニアに対して激しい武装闘争を開始した。その圧力によりモーリタニアは1979年に西サハラの領有権を放棄した。その後SADRの承認国はしだいに増加し、1982年にはアフリカ統一機構OAU。2002年7月アフリカ連合に改組)加盟も認められ、これを不満としたモロッコは84年にOAUを脱退するに至った。その後モロッコとポリサリオ戦線は和平の方向へ動き、国連事務総長の和平提案に基づいて1991年7月には停戦と国連監視下の住民投票を内容とするジュネーブ合意が成立した。同年9月の停戦実現ののち国連住民投票監視団(MINURSO)が業務を開始したが、スペイン統治下の1974年を最後に人口調査が行われていなかったことなどから、有権者の確定作業が暗礁に乗り上げ、住民投票は再三延期された。その後1998年に入って有権者確定作業が進み、一度は12月7日に懸案の住民投票が実施されることになったものの、再度99年12月以降に延期された。

[小田英郎]

『小田英郎他著『アフリカ』(1996・自由国民社)』『小田英郎他編『中東・アフリカ現代政治』(1993・勁草書房)』『小田英郎著『アフリカ現代政治』(1989・東京大学出版会)』『恵谷治著『西サハラ』(1987・朝日新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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