ギリシアのペロポネソス半島北東部,サロニカ湾に面した古代の港町。港の西約9kmの所に医神アスクレピオスの聖域があったことで知られ,国外からも病気平癒を願う人々が訪れた。当地でこの信仰が始まったのは前7世紀のことであるが,聖域の重要な建物はすべて前4世紀以降のものである。前390-前80年ごろのアスクレピオス神殿(ドリス式,6×11柱)は黄金象牙の本尊座像を安置し,ティモテオスTimotheosが装飾した破風彫刻(アテネ国立考古美術館蔵)は重要な遺品である。前360-前30年ごろポリュクレイトス2世の手になる,聖蛇を入れるための(?)円形建物トロス(26の外柱はドリス式,14の内柱はコリント式)は建築意匠の粋を凝らしたもので,多数の部材が当地の美術館に残っている。また古来からその美を謳(うた)われた劇場は,同じ作者によるもので,1万4300人を収容する。
執筆者:福部 信敏
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ギリシア南部、ペロポネソス半島アルゴリス地方東岸の古代都市。古来、医神アスクレピオス崇拝の聖地として知られていた。初めイオニア人の町であったがドーリス人の侵入によって追われた。その後ドーリス人ポリス(都市国家)としてのエピダウロスは、アイギナ、小アジア沿岸、近隣諸島に植民を行い、商業的繁栄を遂げた。しかしアイギナの興隆によって没落し始め、紀元前6世紀には商業活動はほとんどアイギナ人の手に移った。国制は、当初王政であったが、貴族政にとってかわられ、僭主(せんしゅ)プロクレスの追放後、寡頭政を維持し続けた。ペロポネソス戦争中、アルゴスの侵略を受けたが、これを撃退した。ローマ時代には、アスクレピオス神殿のある港湾都市にすぎなくなってしまった。なお、前4世紀に建てられた円形劇場などが残るエピダウロスの遺跡は1988年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[古川堅治]
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…しかしその卓越した医術は,やがて死者を蘇生させる力さえもつまでに至ったので,彼は自然の理法が覆ることを恐れたゼウスの雷霆(らいてい)にうち殺され,へびつかい座の星になったという。ペロポネソス半島のエピダウロスには,アスクレピオス崇拝の中心地となった壮大な神域があり,病人は神殿内で就寝中に神の恩寵にあずかって癒やされたと伝えられる。ローマへは,疫病が大流行した前293年,医神の娘で健康の女神ヒュギエイアHygieia(ラテン名サルスSalus)とともにエピダウロスからその崇拝が移入され,テベレ川の中州の神殿に分祠された。…
…前5世紀には,ミュケナイ,ティリュンス,ナウプリア,アシネなどアルゴス平野の諸市がアルゴスに併合されている。アルゴスの力のおよばないこの地方の東部には,エピダウロス,ヘルミオネ,トロイゼンなどの諸市があったが,なかでもエピダウロスは,医学の神アスクレピオスの神域と野外円形劇場の遺跡によって名高い。アルゴリス北部の都市クレオナイの領域内に含まれるネメアNemeaも,ゼウス神殿とその祭典に伴って催される体育競技とによって,古代ギリシア人の間で宗教上の一中心地としての役割を果たした。…
…ヘレニズム期までには,オルケストラ背後の人工の高台にスケネskēnēと呼ばれる楽屋としての機能をもつ建物が造られ,その高台上のスケネ前の奥行きの浅い空間プロスケニオンproskēnionが俳優の演技の場として確立した。この時期の劇場のようすを知る好例はギリシアのエピダウロスの劇場の遺構(前4世紀)である。しかし古代ギリシアではこの例に見るごとく,劇場は屋外で,しかも自然の斜面を利用して観客席を造らなければならなかった。…
※「エピダウロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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