改訂新版 世界大百科事典 「チャガタイハーン国」の意味・わかりやすい解説
チャガタイ・ハーン国 (チャガタイハーンこく)
Chaghatai Khān
13~14世紀に中央アジアを領域としたモンゴル人の国家。〈モンゴル四ハーン国〉の一つ。13世紀初頭,チンギス・ハーンの第2子チャガタイ・ハーンは,父から4000人(または8000人)のモンゴル人を分与され,初めはアルタイ山方面,次いで天山山中を本拠とするチャガタイ・ウルスを創設した。チャガタイの没後,その子孫たちがハーン位を継承したが,常にモンゴル帝国中央における大ハーン位をめぐる権力争いに巻き込まれ,独立国というにはほど遠い状態が続いた。特に1251年,モンケが大ハーン位に就くと,彼は自らの即位に反対したイス・モンケをはじめとするチャガタイ家成人男子のほとんど全員を殺害ないし追放したため,チャガタイ・ウルスは一時的に壊滅し,その領土は大ハーンとキプチャク・ハーン家によって分割されるありさまであった。しかし,59年モンケが没し,大ハーン位をめぐってアリクブカの乱(1259-64),ハイドゥの乱(1266-1304)という二つの内乱が相次いで勃発すると,その混乱を利用して,アルグAlghu,バラクBarakh,ドゥワDua(?-1306)らチャガタイ家のハーンたちは,徐々に大ハーンなどモンゴル諸王のチャガタイ家に対する宗主権と中央アジアに対する支配権を排除し,やがてこれらの内乱の終結した1306年には,ドゥワがオゴタイ・ウルスの旧領をも併合して,ここに初めてチャガタイ・ハーン国の独立を達成した。
国内ではこの頃から,王族の定住化,イスラム化への傾向が顕著となり,ドゥワの子ケベクKebek,その弟タルマシリンTarmashirinらは西トルキスタンのオアシス地帯で半定住の生活を送り始めた。この状況の中で王族の定住化,イスラム化に反対する保守的なモンゴル人たちは,40年代に天山地方を本拠に別のハーンを立てて独立した。このため,ハーン国はパミールを境に東西に分裂し,この両ハーン国は,60・61年に東部ハーン家(モグーリスターン・ハーン国)の英主トゥグルク・ティムールTughluq Tīmūrによって再統一されはしたが,その死後再び分裂し,西部ハーン家(西チャガタイ・ハーン国)は70年ティムールによって実質的に滅ぼされた。ただ東部ハーン家は,天山方面を本拠に15世紀末に至るまでその伝統的な遊牧生活を保持したが,16世紀になると彼らも天山地帯にとどまりえず,東トルキスタンのオアシス地帯に移住して,そのモンゴル的伝統を急速に消失していった。
執筆者:間野 英二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報