ケルンテン(その他表記)Kärnten

改訂新版 世界大百科事典 「ケルンテン」の意味・わかりやすい解説

ケルンテン[州]
Kärnten

オーストリア南部の州(ラント)。スロベニアとの国境に接する。面積9533km2,人口55万9404(2001)。州都クラーゲンフルト。北のホーエタウエルン山脈,ニーデレタウエルン山脈,南のカルニッシェ・アルペン,カラワンケン山脈に囲まれ,面積の57%が標高1000mをこえる山国。ドラウ(ドラバ)川上流とその支流(メル,リーザー,グルク,ガイル)の流域をなし,各地に水力発電所がある。集落はおもに沖積台地段丘に立地する。アドリア海沿岸とウィーンおよび中欧一帯を結ぶ通路に当たり,古来ケルト,ゲルマン,スラブ諸民族の接触地帯となってきた。土地利用では総面積の44%が森林で,製材・製紙業が発達,34%が牧場・採草地で牧畜も重要である。耕地は13%で,クラーゲンフルト盆地を中心に小麦,ライ麦,エンバクなどが作られている。鉄鋼(基幹産業),化学,窯業,金属加工,皮革などの工業がみられ,菱鉄鉱マグネサイト,亜鉛など鉱物資源にも富む。山と湖に恵まれた風光明美の地で夏季には観光客が多い。

 古名はカリンティアCarinthia。この一帯は45年にローマの属州ノリクムの一部となり,590年前後に南スラブ系のスロベニア人が進出,彼らは初めはトルコ系アバール族の支配に,8世紀にはバイエルン太公,次いでフランク国王の宗主権に服した。バイエルン部族による移住と入植キリスト教の普及に伴い,北部を中心に住民のゲルマン化が進展。976年皇帝オットー2世により独立の太公領に昇格。1286年チロル伯,1335年オーストリア太公(ハプスブルク家)の支配下に移る。15世紀の70~80年代にはトルコ軍の再三の侵入に悩まされた。1518年,州都がザンクト・ファイトからクラーゲンフルトに移る。1809-13年,その一部はナポレオンの〈イリュリア諸州〉の一つに編入された。1849年オーストリアの帝室直属領となる。第1次大戦後,ユーゴスラビアは南ケルンテンの割譲を要求したが,1920年の住民投票の結果,ほぼ全面的にオーストリア領にとどまった。45-55年,イギリス軍が駐留していた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケルンテン」の意味・わかりやすい解説

ケルンテン
けるんてん
Kärnten

オーストリア最南部の州。南の州境は、イタリア、スロベニアとの国境となっている。面積9533平方キロメートル、人口56万1114(2001)。州都はクラーゲンフルト。山がちの上ケルンテンと谷底平野部の下ケルンテンからなる。面積の56.8%が1000メートル以上の山地に属するが、ここには人口のわずか4%が居住するにすぎない。この国の山岳州のなかでは耕地面積の割合が最大で、牧牛を中心に、穀物、果樹栽培が行われる。ドラウ川の水力発電量は全国の3分の1を占め、木材、製紙工業が盛んで、クラーゲンフルトで開かれる木材見本市は有名である。人口の94%はドイツ語を話すが、州南部に少数のスロベニア人が住む。山地に囲まれているため、州としてまとまった文化的特徴をもち、民謡、民話の宝庫となっている。

[前島郁雄]

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