オリベッティ(読み)おりべってぃ(英語表記)Olivetti S.p.A.

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オリベッティ」の意味・わかりやすい解説

オリベッティ
おりべってぃ
Olivetti S.p.A.

イタリアの産業持株会社。オリベッティはイタリアを代表する総合事務機器会社であったが、1990年代後半の事業構造の再構築により、同国最大の情報通信事業会社や事務機器製品の事業子会社などを傘下にもつイタリア最大級の産業持株会社となった。最大株主はイタリアの大手タイヤ・メーカーであるピレリPirelli、アパレル大手のベネトンBenettonの両グループ。本社はピエモンテ州イブレアIvrea。

[風間信隆]

総合事務機器メーカーとしての発展

オリベッティは創業者カミロ・オリベッティCamillo Olivetti(1868―1943)によって、トリノ近郊イブレアの地に「イタリア最初のタイプライター工場」として1908年に創設された。1920年代末までにタイプライターの量産体制を確立して、年間1万3000台のタイプライターを生産。1932年株式会社に改組した。第二次世界大戦前には資本金2300万リラ(創設時35万リラ)、年産4万台の規模となった。さらにカミロの息子アドリアーノ・オリベッティAdriano Olivetti(1901―1960)は、1950年代に入って積極的な研究開発と海外事業展開を進め、世界有数の事務機器メーカーとしての地位を築いた。1950年代にはすでにエレクトロニクス事業に積極的な投資を行い、1959年イタリア最初の電子計算機が開発、販売された。

 会社創立50周年にあたる1958年には2万4000人強の従業員(うち約1万人が海外子会社)を擁し、製品の約60%が海外に輸出された。同社は早くからスペインベルギーアルゼンチンなどに販路を拡大し、1930年代以降は海外での現地生産も展開していたが、第二次世界大戦後はさらに積極的に国際化戦略を推し進め、1959年にアメリカのタイプライター・メーカーの大手アンダーウッド社を買収して事業を拡大した。

 しかし、1960年のアドリアーノの死後、アンダーウッド社買収による財務負担、コンピュータ部門の不振、さらにはオリベッティ一族や経営陣の不和などが重なって業績不振に陥った。1960年の株式公開の際にはオリベッティ一族が会社の支配権を握っていたが、1964年に株式は銀行などに売却され、オリベッティ一族の支配は事実上終わった。1970年代に入ると、さらにイタリア経済の不振(インフレと高金利)もあって業績の悪化に苦しむことになった。

 1978年、カルロ・デ・ベネデッティCarlo De Benedetti(1934― )が株式取得によって経営権を握ると、当時としては画期的な開放型システムの設計思想に依拠した、情報技術(IT)サービス事業分野への転換を図った。1978年に電子タイプライター、1982年にパーソナル・コンピュータを市場に投入。1983年会長兼CEO(最高経営責任者)に就任。1980年代なかばには生産性は就任前と比べ3倍近くに、売上高は2.5倍にまで拡大し、企業業績は急速に回復した。こうして、1980年代にオリベッティ社は、ワープロ、計算機、プリンターファックス複写機など製品レンジを広げ、総合事務機器メーカーとしての成長を続けることになった。

[風間信隆]

事務機器メーカーから情報通信へ

1990年代初頭、情報通信サービス事業に進出し、オリベッティは他社と共同で移動体通信事業部門子会社オムニテルOmnitelを設立(1995年に始動)、また固定通信事業に進出するためにインフォストラーダInfostradaを設立した。しかし、その後、世界的規模での競争激化により同社の業績は悪化することになり、1996年にはデ・ベネデッティが会長を辞任。新会長ロベルト・コラニンノRoberto Colaninno(1943― )のリーダーシップの下で、情報通信分野に事業を絞り込む徹底した事業構造の再構築が行われた。そのリストラによりパソコン事業やシステム・サービス事業は売却された。1999年には民営化された旧国営通信テレコム・イタリアTelecom ItaliaにTOB(株式公開買付)を実施、総額315億ユーロで株式52%を取得してグループ傘下に収めた。一方、反トラスト法の規制によりオムニテルとインフォストラーダはドイツの通信・機械大手のマンネスマンに売却された。また、オリベッティ社の支配権は、同社の筆頭株主(22.5%)であるイタリアの銀行等が設立した持株会社ベル社(本社ルクセンブルク)が握ることになった。その後2001年、ピレリとベネトンが総額14兆リラ(約7800億円)でベル社の所有するオリベッティ社の株式を取得。ピレリとベネトンにより設立された持株会社を通じて、事実上両社の傘下に入ることになった。オリベッティの2001年の売上高は320億1600万ユーロ、従業員数は11万6000人。オリベッティは傘下グループ会社にテレコム・イタリア・グループ、事務・情報通信機器会社のオリベッティ・テクノストOlivetti Tecnostなどを抱える。

 日本では1961年(昭和36)に100%出資の子会社として日本オリベッティが設立されたが、本体事業構造の転換により、オランダ・アムステルダムに本社を置く情報通信技術会社ジェトロニクスGetronicsに1999年(平成11)に売却され、社名も2002年4月ジェトロニクスに変更された。さらに、2007年にNTTデータが同社を子会社化したため、社名をエヌ・ティ・ティ・データ・ジェトロニクスと改めた。

[風間信隆]

その後の動き

2003年に持株会社であるオリベッティが傘下のテレコム・イタリアに吸収合併された。2008年度のオリベッティ部門の売上高は3億5200万ユーロ、赤字額3000万ユーロ、従業員数1194人。

[編集部]

『上野二郎著『オリベッティ物語――日本オリベッティ創立25周年記念』(1987・朝日案内コミュニティ出版事業部)』『ジュゼッペ・トゥラーニ著、大木博巳訳『デ・ベネデッティとフィアット――イタリア経済を演出した男』(1992・同友館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オリベッティ」の意味・わかりやすい解説

オリベッティ
Ing. C. Olivetti & C. SpA

イタリアの事務機器メーカー。前身は 1908年創業のタイプライタ製造会社で,1932年に現社設立。タイプライタを中心とする事務機器を製造してきたが,1960~70年代はエレクトロニクス化を進めて情報処理部門の比重を高め,コピー機,パーソナルコンピュータ,ミニコンピュータ,通信機器,プリンタといった OA関連製品が売り上げの中心であった。1983年からアメリカン・テレフォン・アンド・テレグラフ(→AT&T)と提携。1997年情報技術サービス部門を売却,さらにパソコン事業からも撤退した。1999年にはテレコム・イタリアを買収。近年はモバイル通信が通信事業の主力。本部所在地はイブレア

オリベッティ
Olivetti, Camillo

[生]1868. イブレア
[没]1943.12.
世界屈指の事務機械,情報処理機械会社オリベッティ社の創設者。 1908年故郷の町でイタリア最初のタイプライタ生産工場を設立,11年トリノ博覧会にM-1型タイプライタを出品して注目され,以後イタリアをはじめ南ヨーロッパ,南アメリカに市場を拡大。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のオリベッティの言及

【イブレア】より

…人口2万7694(1981)。アルプス南麓にあり,その起源はローマ時代にさかのぼるが,20世紀初めにオリベッティ社が設立されてから急速に工業化,都市化が進み,人口も急増した。多様な工業が集中している今日も同社との関係は深く,その社員住宅や厚生施設等は,この市の都市計画を主導する形で建設され,企業と地域社会の関係のひとつのモデルを提示している。…

【ピエモンテ[州]】より

… 工業は,19世紀にビエラの毛織物工業をはじめとする北部丘陵地域での繊維工業が,豊富な水力を背景にして,この地方の工業化に先鞭をつけたが,19世紀末に設立されたトリノのフィアット社は南イタリアから流入する労働力を吸収して,とくに第2次世界大戦後の成長が著しい。イブレアのオリベッティOlivetti社の事務用機械の生産も重要である。機械金属および自動車工業とその関連部門が州の工業生産の約半分を占めるが,トリノ県への工業集中の傾向が強く,この1県で州の工業従事者の約60%を擁している。…

※「オリベッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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