カウニッツ(読み)かうにっつ(その他表記)Wenzel Anton, Fürst von Kaunitz-Rietberg

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カウニッツ」の意味・わかりやすい解説

カウニッツ
かうにっつ
Wenzel Anton, Fürst von Kaunitz-Rietberg
(1711―1794)

オーストリア政治家。1740年からのオーストリア継承戦争中に外交官、1748年アーヘン平和会議では全権となる。その経験から、プロイセンを抑えるためにイギリス・オランダ依存をやめ、ロシアに加えて、15世紀以来伝統的に敵対関係にあったフランスとの同盟を考えた(外交革命)。1749年マリア・テレジアの承認を得て1750年自らパリ大使となった。1753年にウィーンに戻り宰相となったが、この外交革命は1756年ベルサイユ条約として結実七年戦争に対処した。シュレージエン奪回はならなかったが、その後も反プロイセン外交を貫き、内政でもマリア・テレジアヨーゼフ2世啓蒙(けいもう)的諸改革を支え産業育成など国力の充実に努め、音楽、芸術を保護してウィーンの文化を高めた。しかしフランス革命の勃発(ぼっぱつ)に直面して反プロイセン政策が不可能になると、レオポルト2世死後、1792年宰相を辞し、引退した。

[進藤牧郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カウニッツ」の意味・わかりやすい解説

カウニッツ
Kaunitz, Wenzel Anton, Reichsgraf von

[生]1711.11.2. ウィーン
[没]1794.6.27. ウィーン
オーストリアの政治家。初め聖職を志したが,1735年以来,皇帝の政府に勤務,おもに外交活動に従事。オーストリア継承戦争に際しては,アーヘンの和約会議でオーストリアの全権大使をつとめた。その後,50年からパリ駐在大使として,対プロシア同盟の締結に尽力,53年からはマリア・テレジア国務長官要職に任じられた。 56年1月プロシアがイギリスと結んだとき,彼はこれに対抗してフランスとの防御同盟を結ぶことに成功し,さらにロシアをもこれに加わらせた。七年戦争によるプロシア打倒には失敗したが,第1次ポーランド分割によるガリチアの獲得などは彼の外交手腕のたまものである。内政面では啓蒙絶対主義を支持する開明政治家であり,学芸の保護にも関心を注いだ。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カウニッツ」の解説

カウニッツ
Wenzel Anton Graf von Kaunitz-Rietberg

1711~94

18世紀オーストリアの政治家。マリア・テレジアヨーゼフ2世のもとで内治,外交に手腕をふるった。従来の反仏政策を改めてフランスと同盟を結び(外交革命),プロイセンに対抗しようとした。第1次ポーランド分割に参加して領土を広げ,学芸を保護し,工業を促進した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カウニッツ」の解説

カウニッツ
Wenzel Anton Graf von Kaunitz-Rietberg

1711〜94
オーストリアの政治家
女帝マリア=テレジアの信任が厚く,パリ駐在大使・首相を歴任。プロイセンに対抗するため,従来の反仏政策を改めてフランスと同盟を結び(外交革命),七年戦争を推進した。また,第1次ポーランド分割に参加し,領土を拡大した。

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