マリアテレジア(読み)まりあてれじあ(英語表記)Maria Theresia

デジタル大辞泉 「マリアテレジア」の意味・読み・例文・類語

マリア‐テレジア(Maria Theresia)

[1717~1780]オーストリアの君主。在位1740~1780。フランツ1世の妃。マリー=アントワネットの母。父カール6世の死後、ハプスブルク家の全領土を相続。オーストリア継承戦争七年戦争以後、内政・軍政改革を成功させ、絶対主義体制の確立に尽力した。マリアテレサ
ハイドン交響曲第48番ハ長調の通称。1769年以前の作曲。通称はハイドンが仕えていたエステルハージ家を1773年にが訪問した際に演奏されたことに由来する。

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精選版 日本国語大辞典 「マリアテレジア」の意味・読み・例文・類語

マリア‐テレジア

  1. ( Maria Theresia ) オーストリアの女帝(在位一七四〇‐八〇)。父帝カール六世からハプスブルク家の全領土を相続。オーストリア継承戦争・七年戦争でプロイセンと戦い、シュレジエンシロンスク)を失ったが、行政・軍制の改革を断行して絶対主義体制を確立し、オーストリアの強国化に尽力した。マリア=テレサ。(一七一七‐八〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マリアテレジア」の意味・わかりやすい解説

マリア・テレジア
まりあてれじあ
Maria Theresia
(1717―1780)

オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ女帝(在位1740~80)。マリア・テレサともいう。カール6世の長女として生まれ、1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚。ハプスブルク家の家憲であるプラグマティッシェ・ザンクツィオンにより、40年父帝の死後全家領を一括相続するが、プロイセン王フリードリヒ2世のシュレージエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続権要求により、オーストリア継承戦争に直面する。緒戦においてベーメンボヘミア)、オーバーエスターライヒ(上オーストリア)までも失い、挽回(ばんかい)のためハンガリー貴族の特権を認めてその援助を受けたが、アルバートの皇帝カール7世への戴冠(たいかん)を拒むことはできなかった。イギリス、オランダの支援を得て、42年プロイセンとブレスラウブロツワフ)に和し、攻勢に転じたが、44年ふたたびフリードリヒ2世のベーメン侵攻に直面し、45年ドレスデンに和約を結んだ。この結果、シュレージエンを失ったが、夫フランツ1世(在位1745~65)の皇帝位とともに全世襲領を確保した。戦後はオーストリアとベーメンの政庁を統合し、軍制、行・財政、王領地管理を一本化するなど、国内改革を進めた。外交でも数世紀にわたる宿敵フランスとの同盟に成功し、イギリスを敵に回したが、ロシア、フランスとの同盟によって七年戦争ではフリードリヒ2世を苦しめた。ロシアの脱落により、シュレージエンの奪回は果たせなかった。65年夫の死後、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治のなかで、彼の急進的な啓蒙(けいもう)主義を抑えながら、神の恩寵(おんちょう)によりどころを求めて啓蒙的諸政策を実施し、賦役軽減による農民保護、イエズス会の解散、学制・法制改革、産業育成など近代化に努め、有能な政治家を周囲に集めて難局に対処した。シェーンブルンの宮廷にあっても、市民的な家庭生活を重んじ、皇帝レオポルト2世、マリ・アントアネット(フランス王ルイ16世の王妃)など16人の子の母として、また敬虔(けいけん)なカトリックの啓蒙君主として、多民族からなる国民からも国母として敬慕された。

[進藤牧郎]

『アン・ティツィア・ライティヒ著、江村洋訳『女帝マリア・テレジア』全2冊(1984・谷沢書房)』『江村洋著『マリア・テレジアとその時代』(1992・東京書籍)』『マリー・パウル・クリストフ編、藤川芳朗訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(2002・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「マリアテレジア」の意味・わかりやすい解説

マリア・テレジア
Maria Theresia
生没年:1717-80

オーストリア・ハプスブルク家の女帝。在位1740-80年。神聖ローマ皇帝カール6世の長女。ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと恋愛結婚する。父の死後プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktionにより1740年に全ハプスブルク世襲領を一括相続するが,プロイセンのフリードリヒ2世のシュレジエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続要求によりオーストリア継承戦争に直面し,ハンガリー貴族の特権を認めて援助を受け,イギリス,オランダの支援をも得て,45年ドレスデンに和約を結ぶ。この戦争によってシュレジエンを失ったが,全世襲領とともに夫フランツ1世Franz Ⅰ(在位1745-65)に皇帝位を確保した。49年オーストリアとボヘミアの政庁を統合し,軍政,行財政,王領地管理を一本化するなど,戦後は国内改革を進めた。外交でも数世紀来の宿敵フランスとの同盟に成功し,イギリスを敵にまわした。仏露墺同盟によって七年戦争ではフリードリヒ2世を苦しめたが,ロシアの脱落によりシュレジエン回復には失敗する。夫の死後,65年から長男ヨーゼフ2世との共同統治のなかで,賦役軽減による農民保護,イエズス会の解散,学制・法制改革,産業育成など啓蒙的諸政策によって近代化に努めた。ハプスブルク王家のなかで,マリー・アントアネットなど16人の子女の母として穏やかな市民的家庭をつくり,政治的にも有能な政治家を周囲に集めて難局に処し,敬虔なカトリックの啓蒙君主として,多民族からなる国民からも国母として敬愛された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マリアテレジア」の意味・わかりやすい解説

マリア・テレジア
Maria Theresia

[生]1717.5.13. ウィーン
[没]1780.11.29. ウィーン
オーストリア大公 (在位 1740~80) 。ハンガリーおよびボヘミアの女王を兼ねた。ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カルル6世の娘。 1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚し,ハプスブルク=ロートリンゲン家が成立した。父カルル6世は,男子が夭折してほかに嗣子がなかったため,国事詔書を公布して娘マリア・テレジアにハプスブルク家を継承させようとした。父の死 (1740) を契機に,この相続問題にフランス,プロシアなどが介入し,オーストリア継承戦争へと発展,その結果オーストリアはシュレジエンの大部分をプロシアのフリードリヒ2世 (大王)に割譲したが,イギリスと同盟を結んだためシュレジエン以外の領地を守ることができ,マリア・テレジアの大公位相続は認められた。マリア・テレジアは,夫を神聖ローマ皇帝フランツ1世として就位させ (45) ,さらにフランス,ロシアを味方として,七年戦争 (56~63) によりシュレジエン奪回をはかったが失敗。以後国政改革により近代的中央集権国家の確立に努力,農民保護などの開明的社会政策も行なった。夫の死 (65) 後,長男ヨーゼフ2世をオーストリアの共同統治者,神聖ローマ皇帝とした。フランス王ルイ 16世の妃マリ・アントアネットは彼女の娘である。

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百科事典マイペディア 「マリアテレジア」の意味・わかりやすい解説

マリア・テレジア

オーストリアの皇帝(在位1740年―1780年)。神聖ローマ皇帝カール6世の娘。1740年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)に基づきハプスブルク家の全領土を相続したが,列国の干渉を招いた(オーストリア継承戦争)。シュレジエンを失ったが夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位を確保した。その後,失地回復を図って七年戦争を起こし,失敗する。1765年以後その子ヨーゼフ2世を補佐した。内政面では,農奴の解放,中央・地方行政組織や軍制の整備,産業育成などに努力した。典型的な啓蒙専制君主の一人で,マリー・アントアネットはその娘。
→関連項目アーヘンの和約ウィーン大学

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マリアテレジア」の解説

マリア・テレジア
Maria Theresia

1717~80(在位1740~80)

オーストリア女性大公,ボヘミア・ハンガリー女王,ドイツ皇妃。皇帝カール6世の娘。プラグマティッシェ・ザンクツィオンによりハプスブルク家の全領土を相続,この問題をめぐるオーストリア継承戦争シュレージエンは失ったが,帝位を夫君トスカーナ大公フランツ・シュテファン(フランツ1世)に確保することに成功した。中央・地方行政や軍制の改革を断行して絶対主義体制を打ち立て,フランスと同盟を結んでフリードリヒ2世七年戦争を戦ったが,シュレージエン奪回の企てが失敗に終わるや,1765年以降,その子ヨーゼフ2世とともに国力増強を図り,財政改革,農民保護,教会・教育改革など各種の啓蒙専制主義的・重商主義的政策を実施した。16人の子女のうちには皇帝レオポルト2世マリ・アントワネットもいる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マリアテレジア」の解説

マリア=テレジア
Maria Theresia(Theresa)

1717〜80
オーストリア大公で,ハンガリー・ベーメンの女王(在位1740〜80)
父カール6世の死後ハプスブルク家領を相続したとき,帝位相続権についてバイエルン公やスペイン・フランス・プロイセン・ザクセンなどが反対したため,オーストリア継承戦争が起こり,シュレジエンを失った。中央集権体制を整え,財政を豊かにして軍事力を増大させ,外交革命でフランスと同盟を結び七年戦争でシュレジエン奪回を志したが果たせなかった。1772年のポーランド分割に参加。またルイ16世の妃マリ=アントワネットの母でもある。

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デジタル大辞泉プラス 「マリアテレジア」の解説

マリア・テレジア

オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第48番(1769頃)。原題《Maria Theresia》。名称は1773年に女帝マリア・テレジアがエステルハージ家を訪問した際に演奏されたことに由来する。

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367日誕生日大事典 「マリアテレジア」の解説

マリア・テレジア

生年月日:1717年5月13日
ハプスブルク家の女帝,オーストリア大公,ハンガリーおよびボヘミアの女王
1780年没

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世界大百科事典(旧版)内のマリアテレジアの言及

【オーストリア】より

… 1700年ハプスブルクのスペイン家系が断絶し,それに続くスペイン継承戦争の後,イタリアとオランダのスペイン領はオーストリア家系の手に入った。この時期マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ1世に軍事的に対抗する宿命を担って即位し,1740年から80年まで統治した。彼女は1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan(1708‐65)と結婚し,それによってハプスブルク・ロートリンゲン家を創設した。…

【オーストリア継承戦争】より

…神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって,1740‐48年に行われた戦争。この領土相続は,列国の承認をえた〈国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)〉にもとづくものであったが,40年10月,マリア・テレジアが父の死とともにオーストリアの君主になると,バイエルン,ザクセンおよびスペインは,領土的野心から約束を破ってこれに異議を唱え,ハプスブルクと長年敵対関係にあるフランスがこれを支持した。…

【女帝】より

…しかし〈帝国〉という正式のタイトルはなくても,イギリス・チューダー朝の名声を担ったエリザベス1世(在位1558‐1603)はイメージからすればまさに〈女帝〉に近い存在であった。ヨーロッパ史で〈女帝〉というタイトルをもち,またそれにふさわしい政治的手腕を発揮するのは,神聖ローマ帝国のマリア・テレジア(在位1740‐80)である。男子がなかった皇帝カール6世は長女マリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を継承させるために〈国事詔書Pragmatische Sanktion〉を発し,列強の一応の承認をえた。…

【ドナウ[川]】より

… 17世紀末にオスマン帝国を破り(オーストリア・トルコ戦争),ドナウ川流域の主要部分を治めたオーストリアは,ドナウ川航行に対する管理体制を確立することに努めた。マリア・テレジアは独自の航行省をつくり,息子のヨーゼフ2世は,河川規制措置を提案し,河川整備工事を推し進めた。 19世紀に入り,イギリス産業革命の波が中欧にも押し寄せ,水運が見直されるに及んでドナウ川も新しい時代を迎えた。…

【ハプスブルク家】より

…兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝,在位1705‐11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711‐40)になると,ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び,スペイン王位はハプスブルク家を離れ,ブルボン家に移った。
[啓蒙君主たち]
 しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。…

【ブレラ美術館】より

…イタリアのミラノにある美術館。美術館の建物は,イエズス会のために17世紀中ごろに着工されたが,1773年イエズス会の解散にともない,諸研究機関がここに移され,また76年にはロンバルディアを直領下としていたオーストリアのマリア・テレジアにより美術アカデミーも設立された。ブレラ美術館の起源は,このアカデミーの学生の教育目的のためのコレクションであった。…

※「マリアテレジア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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