オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ女帝(在位1740~80)。マリア・テレサともいう。カール6世の長女として生まれ、1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚。ハプスブルク家の家憲であるプラグマティッシェ・ザンクツィオンにより、40年父帝の死後全家領を一括相続するが、プロイセン王フリードリヒ2世のシュレージエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続権要求により、オーストリア継承戦争に直面する。緒戦においてベーメン(ボヘミア)、オーバーエスターライヒ(上オーストリア)までも失い、挽回(ばんかい)のためハンガリー貴族の特権を認めてその援助を受けたが、アルバートの皇帝カール7世への戴冠(たいかん)を拒むことはできなかった。イギリス、オランダの支援を得て、42年プロイセンとブレスラウ(ブロツワフ)に和し、攻勢に転じたが、44年ふたたびフリードリヒ2世のベーメン侵攻に直面し、45年ドレスデンに和約を結んだ。この結果、シュレージエンを失ったが、夫フランツ1世(在位1745~65)の皇帝位とともに全世襲領を確保した。戦後はオーストリアとベーメンの政庁を統合し、軍制、行・財政、王領地管理を一本化するなど、国内改革を進めた。外交でも数世紀にわたる宿敵フランスとの同盟に成功し、イギリスを敵に回したが、ロシア、フランスとの同盟によって七年戦争ではフリードリヒ2世を苦しめた。ロシアの脱落により、シュレージエンの奪回は果たせなかった。65年夫の死後、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治のなかで、彼の急進的な啓蒙(けいもう)主義を抑えながら、神の恩寵(おんちょう)によりどころを求めて啓蒙的諸政策を実施し、賦役軽減による農民保護、イエズス会の解散、学制・法制改革、産業育成など近代化に努め、有能な政治家を周囲に集めて難局に対処した。シェーンブルンの宮廷にあっても、市民的な家庭生活を重んじ、皇帝レオポルト2世、マリ・アントアネット(フランス王ルイ16世の王妃)など16人の子の母として、また敬虔(けいけん)なカトリックの啓蒙君主として、多民族からなる国民からも国母として敬慕された。
[進藤牧郎]
『アン・ティツィア・ライティヒ著、江村洋訳『女帝マリア・テレジア』全2冊(1984・谷沢書房)』▽『江村洋著『マリア・テレジアとその時代』(1992・東京書籍)』▽『マリー・パウル・クリストフ編、藤川芳朗訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(2002・岩波書店)』
オーストリア・ハプスブルク家の女帝。在位1740-80年。神聖ローマ皇帝カール6世の長女。ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと恋愛結婚する。父の死後プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktionにより1740年に全ハプスブルク世襲領を一括相続するが,プロイセンのフリードリヒ2世のシュレジエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続要求によりオーストリア継承戦争に直面し,ハンガリー貴族の特権を認めて援助を受け,イギリス,オランダの支援をも得て,45年ドレスデンに和約を結ぶ。この戦争によってシュレジエンを失ったが,全世襲領とともに夫フランツ1世Franz Ⅰ(在位1745-65)に皇帝位を確保した。49年オーストリアとボヘミアの政庁を統合し,軍政,行財政,王領地管理を一本化するなど,戦後は国内改革を進めた。外交でも数世紀来の宿敵フランスとの同盟に成功し,イギリスを敵にまわした。仏露墺同盟によって七年戦争ではフリードリヒ2世を苦しめたが,ロシアの脱落によりシュレジエン回復には失敗する。夫の死後,65年から長男ヨーゼフ2世との共同統治のなかで,賦役軽減による農民保護,イエズス会の解散,学制・法制改革,産業育成など啓蒙的諸政策によって近代化に努めた。ハプスブルク王家のなかで,マリー・アントアネットなど16人の子女の母として穏やかな市民的家庭をつくり,政治的にも有能な政治家を周囲に集めて難局に処し,敬虔なカトリックの啓蒙君主として,多民族からなる国民からも国母として敬愛された。
執筆者:進藤 牧郎
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1717~80(在位1740~80)
オーストリア女性大公,ボヘミア・ハンガリー女王,ドイツ皇妃。皇帝カール6世の娘。プラグマティッシェ・ザンクツィオンによりハプスブルク家の全領土を相続,この問題をめぐるオーストリア継承戦争でシュレージエンは失ったが,帝位を夫君トスカーナ大公フランツ・シュテファン(フランツ1世)に確保することに成功した。中央・地方行政や軍制の改革を断行して絶対主義体制を打ち立て,フランスと同盟を結んでフリードリヒ2世と七年戦争を戦ったが,シュレージエン奪回の企てが失敗に終わるや,1765年以降,その子ヨーゼフ2世とともに国力増強を図り,財政改革,農民保護,教会・教育改革など各種の啓蒙専制主義的・重商主義的政策を実施した。16人の子女のうちには皇帝レオポルト2世やマリ・アントワネットもいる。
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… 1700年ハプスブルクのスペイン家系が断絶し,それに続くスペイン継承戦争の後,イタリアとオランダのスペイン領はオーストリア家系の手に入った。この時期マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ1世に軍事的に対抗する宿命を担って即位し,1740年から80年まで統治した。彼女は1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan(1708‐65)と結婚し,それによってハプスブルク・ロートリンゲン家を創設した。…
…神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって,1740‐48年に行われた戦争。この領土相続は,列国の承認をえた〈国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)〉にもとづくものであったが,40年10月,マリア・テレジアが父の死とともにオーストリアの君主になると,バイエルン,ザクセンおよびスペインは,領土的野心から約束を破ってこれに異議を唱え,ハプスブルクと長年敵対関係にあるフランスがこれを支持した。…
…しかし〈帝国〉という正式のタイトルはなくても,イギリス・チューダー朝の名声を担ったエリザベス1世(在位1558‐1603)はイメージからすればまさに〈女帝〉に近い存在であった。ヨーロッパ史で〈女帝〉というタイトルをもち,またそれにふさわしい政治的手腕を発揮するのは,神聖ローマ帝国のマリア・テレジア(在位1740‐80)である。男子がなかった皇帝カール6世は長女マリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を継承させるために〈国事詔書Pragmatische Sanktion〉を発し,列強の一応の承認をえた。…
… 17世紀末にオスマン帝国を破り(オーストリア・トルコ戦争),ドナウ川流域の主要部分を治めたオーストリアは,ドナウ川航行に対する管理体制を確立することに努めた。マリア・テレジアは独自の航行省をつくり,息子のヨーゼフ2世は,河川規制措置を提案し,河川整備工事を推し進めた。 19世紀に入り,イギリス産業革命の波が中欧にも押し寄せ,水運が見直されるに及んでドナウ川も新しい時代を迎えた。…
…兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝,在位1705‐11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711‐40)になると,ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び,スペイン王位はハプスブルク家を離れ,ブルボン家に移った。
[啓蒙君主たち]
しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。…
…イタリアのミラノにある美術館。美術館の建物は,イエズス会のために17世紀中ごろに着工されたが,1773年イエズス会の解散にともない,諸研究機関がここに移され,また76年にはロンバルディアを直領下としていたオーストリアのマリア・テレジアにより美術アカデミーも設立された。ブレラ美術館の起源は,このアカデミーの学生の教育目的のためのコレクションであった。…
※「マリアテレジア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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