ドイツの都市アーヘン(フランス名、エクス・ラ・シャペル)で結ばれた次の和約をさす。
(1)1668年の、ルイ14世の侵略戦争の一つフランドル戦争終結の和約。ルイ14世はスペイン・ハプスブルク家の旧ブルグント公領ネーデルラントの相続を要求して侵入したが、イギリス、オランダの反撃にあい和を結んだ。占領したフランシュ・コンテを返還し、リールなどわずかなフランドル諸都市を得たが、相続問題は解決しなかった。イギリスはスペインから西インド諸島、北アメリカの領土要求権を得た。
(2)1748年の、オーストリア継承戦争の結末としての和約。マリア・テレジアの相続をめぐり、バイエルン選帝侯の相続権主張とプロイセン王フリードリヒ2世のシュレージエン領有の要求を直接の契機として開戦した(1740)が、戦争は17世紀以来対立する英仏両国の介入によって国際的規模で展開した。1745年プロイセンがシュレージエンを確保し、皇帝フランツ1世の選立を認めてドレスデンに和を結んだのちも、フランス・スペインのブルボン連合とイギリス・オーストリア同盟との戦いは続いた。しかしオーストリアと結んだロシアのネーデルラント戦線への出兵が決定的となり、この和約となった。関係各国は占領地をそれぞれ返還し、オーストリアはシュレージエンのほかわずかにイタリアのパルマ、ピアチェンツァを失ったにすぎなかったが、イギリスの世界的優位、プロイセン・ドイツの興隆、ロシアの台頭を決定的にする結果を招いた。
[進藤牧郎]
1748年10月,フランスとスペインがイギリス,オランダ,サルデーニャおよびオーストリアとの間に結んだ和約で,オーストリア継承戦争を終結させたもの。プラグマティッシェ・ザンクツィオンの効力を列強に認めさせた代償として,オーストリアはフリードリヒ2世が占領していたシュレージエンを正式にプロイセンに与え,またスペイン王フェリペ5世の子ドン・フェリペにパルマ,ピアツェンツァ,グアスタルラを割譲した。そのほかハノーヴァー朝のドイツ内における領土も,これによって保障された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…こうしてドイツでの戦闘は終わったが,その後もイタリアではスペイン,フランスがオーストリアとの戦いを続け,またオーストリア領ネーデルラントではフランス軍が連勝してオランダに脅威を与えた。しかしフランスは,ヨーロッパ内外の戦争で国力を消耗しイギリスと和平したので,新たにロシアがオーストリアと結びライン川方面に出兵するという情勢のもとで,48年10月18日,アーヘンの和約が成立した。 オーストリア継承戦争は,当初からプロイセン,オーストリア間のシュレジエン戦争とからみ合い,その帰趨もこれによって大幅に規定されたが,さらに広く見れば,フランスとの植民地争奪戦のなかでイギリスが展開したヨーロッパ政策も,そこに深く作用している。…
※「アーヘンの和約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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