改訂新版 世界大百科事典 「カダンバ朝」の意味・わかりやすい解説
カダンバ朝 (カダンバちょう)
Kadamba
インドの王朝。4世紀中葉よりバイジャヤンティーVaijayantī(バナバーシBanavāsi)に都して南西デカンのコンカン地方を支配した。北をグプタ朝,バーカータカ朝,南はガンガ朝,パッラバ朝に囲まれ,これら諸王朝との角逐がカダンバ朝の主要な歴史である。5代王カークトゥスタバルマンKākutsthavarmanの時に最も勢力が安定し,グプタ朝とは婚姻関係を結び,大規模な灌漑用貯水池などもつくられた。その死後2人の子の間で国が南北に分裂し,北の兄王統は5人の王が立って6世紀中ごろまで続いたが,北方にチャールキヤ朝の勢力が拡大すると衰退した。南の弟王統もパッラバ朝,チャールキヤ朝に従属することが多く,7世紀初頭に6代目の王がチャールキヤ朝プラケーシン2世に倒された後は衰微の一途をたどった。のち10世紀から12世紀にかけて勢力を回復したが,地方的小政権の域を出るものとはならなかった。カダンバ朝は,バラモンの出自(ゴートラ)を主張し,ベーダ文化の体現を誇示して支配者としての正統性を強調するいわゆる〈アーリヤ化Aryanization〉への志向を示したが,土着文化との融合も進められた。悪魔(ターラカ)を倒す一方で疫病神でもあるという複合的な性格をもち,シバ神の息子としてヒンドゥー教にとり込まれた軍神カールッティケーヤKārttikeya(スカンダSkanda)の崇拝は,その典型的な例であり,チャールキヤ朝等の後の王朝にも受け継がれた。また,ジャイナ教が栄えたことでも知られている。
執筆者:石川 寛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報