バーカータカ朝(読み)バーカータカちょう(その他表記)Vākāṭaka

改訂新版 世界大百科事典 「バーカータカ朝」の意味・わかりやすい解説

バーカータカ朝 (バーカータカちょう)
Vākāṭaka

古代インドの王朝サータバーハナ朝崩壊の後をうけ,3世紀後半から6世紀にかけてデカン地方中部を中心とした一帯支配した。初代王ビンディヤシャクティVindhyaśaktiの事業を継承したプラバラセーナ1世Pravarasena Ⅰは領土を拡張し,北はナルマダー川流域から南はゴーダーバリー川流域に至る王国の基礎を築いた。王の死後王国は分裂し,主派は今日のナーグプル付近に主都を置き,王の孫のルドラセーナ1世Rudrasena Ⅰの時には北方グプタ朝と並ぶ有力国家であった。その孫ルドラセーナ2世はグプタ朝チャンドラグプタ2世の娘プラバーバティーPrabhāvatīと結婚して同盟関係を結んだ。プラバーバティーは夫の死後幼い子の摂政として長年にわたり統治した。この王統は6世紀初頭まで続いた。

 バッツァグルマVatsagulma(現,バーシムBāsim)に都した別派はプラバラセーナ1世の子のサルバセーナSarvasenaによって王統が受け継がれたと考えられており,以後5人の王が即位して6世紀中ごろまで存続した。この派の諸王は,アジャンター窟院の活動を援助したことが,同窟院に残る碑文より知られている。

 王朝のもとでは諸芸術が栄え,上記アジャンター窟院造営にみられる建築彫刻絵画などのほか,文芸も盛んであった。流麗なバイダルビー文体Vaidarbhī rītiは有名で,プラバラセーナ2世など諸王による作品も伝えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーカータカ朝」の意味・わかりやすい解説

バーカータカ朝
ばーかーたかちょう
Vākātaka

インドのデカンで3世紀後半から6世紀中ごろまで支配した王朝。デカン一帯を支配したサータバーハナ朝が滅んだあとにはいくつかの王朝が興ったが、この王朝はその中央のビダルバに台頭し、3世紀から4世紀にかかるころ、第2代プラバラセーナ1世が勢力を拡大して、サムラージ(覇王)と称した。その子のとき王国は東西二つに分かれ、東の主派はナーグプル近くに都し、5世紀初めルドラセーナ2世はグプタ朝チャンドラグプタ2世の娘を娶(めと)り、彼女は夫王の死後実権を握り、グプタ朝の威勢を借りてデカンに勢力を振るった。西の分派はマハラシュトラ北西部のバッサグルマに都して、6世紀初めにハリシェーナが現れ、周辺の国を征服して強大となった。アジャンタの第16、17石窟(せっくつ)は彼のときにつくられた。だがこの王朝は6世紀中ごろに滅び、その領域はやがてチャールキヤ朝の勢力下に入った。

[山崎利男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーカータカ朝」の意味・わかりやすい解説

バーカータカ朝
バーカータカちょう
Vākāṭaka

古代インドのデカン地方を支配した王朝 (3~6世紀) 。サータバーハナ朝が衰えたとき,ベラール地方に興り,4世紀初め四方を征服してデカン地方全域を支配。その後,北のグプタ朝などと婚姻関係によって外交維持。6世紀中頃チャールキヤ朝に滅ぼされた。この王朝のもとでアジャンタ石窟美術は最盛期を迎えた。

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世界大百科事典(旧版)内のバーカータカ朝の言及

【アジャンター】より

…5世紀末期から7世紀の第2期には,石窟の構造が整備され,彫刻や壁画によって華麗に飾られるようになった。そのうち第16,17両窟には,バーカータカ朝のハリシェーナ王の治世(5世紀末期)にその臣下によって造営された旨の刻文がある。バーカータカ朝は,4~5世紀にインド古典文化の黄金期を築いたグプタ朝と姻戚関係を結んだこともあり,第2期の彫刻や壁画にはグプタ文化の反映が認められる。…

※「バーカータカ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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