サータバーハナ朝(読み)サータバーハナちょう(英語表記)Sātavāhana

改訂新版 世界大百科事典 「サータバーハナ朝」の意味・わかりやすい解説

サータバーハナ朝 (サータバーハナちょう)
Sātavāhana

3世紀中ごろまでデカン地方を中心に,西部・南部インドを支配した王朝。支配開始期には異説があるが,前1世紀後半説が有力。起源・故地は不詳。族名(ジャーティ)によってアーンドラĀndhra王朝とも呼ばれる。アショーカ王が有力部族名の一つとしてアーンドラをあげていることから,マウリヤ朝のころすでに有力であったと考えられる。王国の確立は第3代シャータカルニŚātakarṇi王による。ナルマダー川北部を攻め,東マールワー地方にまで軍を進め〈西方の王〉と称した。また,南はゴーダーバリー河畔まで支配を及ぼし〈南方の王〉と称した。王都をデカン北西部のプラティシュターナ(現,パイターン)に置いた。2世紀初頭には,ガウタミープトラ・シャータカルニGautamīputra Śātakarṇi王はそれまで支配していたサカ族を討ち,ナルマダー川以北の西部インドを奪回した。その子バーシシュティープトラ王(別名シュリー・プルマービ)は,プトレマイオスのインド地理に言及されているシロ・ポレマイオスと同一人物と考えられる。2世紀末に王国はヤジュニャシュリー・シャータカルニYajñaśrī Śātakarṇi王の下で勢力をもち,カティアーワール半島,クリシュナー川デルタ,ベラーリーまで版図を拡大するが,しだいに衰退し,やがて3世紀中葉までに地方勢力に分割された。王領はラージャ,マハーラティ,マハーホージャなどの封臣に統治され,中でもラージャは自らの貨幣鋳造を認められていた。他の領域はアーハーラという行政区に分けられ,文官知事(アマーティヤamātya)と軍人知事(マハーセーナーパティmahāsenāpati)のもとに置かれた。王朝の支配によってインドの北部と南部の交流が促進され,インド内のみならず,ローマなど西方との交易もさかんになった。王国はバラモン教を信仰したが,仏教ジャイナ教も広まっていた。
執筆者:

前1世紀後半から3世紀中ごろまでのサータバーハナ朝時代には,前半には西部インドで,後半には南インド東海岸のアーンドラ地方で美術が栄え,南インド美術の基礎を築いた。寄進銘から第3代シャータカルニ王(1世紀初期)のとき,サーンチー第1塔塔門の造営にこの王朝が関与したと考えられている。その後,クシャーナ朝クシャトラパ(太守)であったサカ族系のクシャハラータ家と勢力を競い,両者は相次いで西部インドに仏教石窟を造営した。サータバーハナ朝はナーシク第3窟(2世紀前期),カンヘーリー第3窟(2世紀末期),クシャハラータ家はナーシク第10窟やカールレー祠堂窟(ともに2世紀初期)に刻銘をのこしている。サータバーハナ朝は2世紀前期にはアーンドラ地方に進出し,アマラーバティーその他にストゥーパを造営した。アマラーバティーのストゥーパの浮彫とサーンチー第1塔塔門のそれとは,服制や柔らかな肉付けが共通するものの,前者の人体表現は動きと変化に富み,空間把握も巧みである。当時活発化した海上貿易とともにローマ美術の技法が伝えられたとする説もある。
アーンドラ美術
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サータバーハナ朝」の意味・わかりやすい解説

サータバーハナ朝
さーたばーはなちょう
Sātavāhana

インドの王朝。アンドラ朝ともよばれる。紀元前1世紀末(別説前3世紀末)から紀元後3世紀初めにかけてデカン高原を支配した。王朝の研究史料の一つにプラーナ文献があるが、その用い方によって、初代の王シムカは前1世紀とも前3世紀ともされる。いずれにしても、王朝の存在が碑文や貨幣によってはっきりと確認されるようになるのは前1世紀末で、そのころゴダバリ川上流のプラティシュターナ(パイターン)を中心とした地方に大きな勢力をもっていた。その後は1世紀に西北インドに侵入したサカ人のクシャトラパと争い領土の一部を失うが、2世紀初頭、ガウタミープトラ・シャータカルニ王がクシャトラパ勢力を破り、失われた領土を奪回した。王は碑文のなかで、「サカ・ヤバナ・パフラバの粉砕者」とよばれている。しかし、後継者プルマーイ2世の治世にはふたたびクシャトラパの攻撃を受け、王朝の勢力はしだいに東方のゴダバリ川およびクリシュナ川下流域(アンドラ地方)へ移った。クシャトラパとの抗争はその後も続いたが、2世紀末、シュリー・ヤジュニャ・シャータカルニ王のときには三たび勢力が拡大し、王国の版図はデカンの北西岸から東岸にまで及んだ。しかし、その後はしだいに勢力が衰え、西北デカンではアービーラ朝、アンドラ地方ではイクシュバーラ朝などの新興勢力にとってかわられ、3世紀前半に滅亡した。

 西海岸のバリュガザその他の港を通して、ローマ帝国との海上貿易が活発に行われた。王朝中期の王ハーラは、プラークリットの叙情詩『サッタサイー』の作者に擬せられている。この王朝期にデカンでは仏教が栄え、ゴダバリ川上流地域にバージャー、カールレー、アジャンタなどの仏教石窟(せっくつ)が、クリシュナ川下流域のアマラバティなどにストゥーパ(仏塔)がつくられている。

[辛島 昇]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サータバーハナ朝」の意味・わかりやすい解説

サータバーハナ朝
サータバーハナちょう
Sātavāhana

南インドの王朝。アーンドラ朝とも呼ばれる。前2世紀,マウリヤ朝衰退後ゴーダーバリー川上流に興り,デカン地方で初めて強力な王国を築いた。1世紀に北からサカ族が侵略したため一時衰えたが,2世紀初めガウタミープトラ・シャータカルニがこれを駆逐して再興し,次いで東方に領土を拡大し,都をアーンドラ地方に移して,デカン一帯をアラビア海からベンガル湾にいたるまで統一支配した。しかし3世紀に入ると領域内の各地で新しい王朝が台頭したために滅亡。この時代にはデカンの発展はめざましく,商業が繁栄してローマ貿易が活発に行われた。当時の仏教の盛況は数多くの遺跡によってうかがわれる。

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百科事典マイペディア 「サータバーハナ朝」の意味・わかりやすい解説

サータバーハナ朝【サータバーハナちょう】

インドの王朝。アーンドラAndhra朝ともいわれ,前1世紀後半(異説もある)から3世紀半ばまでインド南部を除くデカン高原を支配した。都はプラティシュターナ。半島東西の海港を拠点とした東西貿易,特に対ローマ貿易で繁栄し,学問,芸術も発達した。バラモン教を信仰したが,仏教,ジャイナ教も広まっていた。→アーンドラ美術

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世界大百科事典(旧版)内のサータバーハナ朝の言及

【アーンドラ美術】より

…サータバーハナ朝(アーンドラ族)が関与した美術を指すこともあるが,一般的には南インド東海岸のクリシュナ,ゴーダーバリー両川の下流域のアーンドラĀndhra地方(現在のアーンドラ・プラデーシュ州の一部)の美術の総称として用いられている。この地方の造形活動は1世紀ごろ始まったと考えるのが有力で,北西デカンを支配していたサータバーハナ朝がこの地方に進出する2世紀前期から急速に仏教美術が興隆した。…

【インド】より

…こうした経済的・文化的発達を背景に,帝国崩壊の後,亜大陸の各地でガンガー川流域の国家をしのぐ強大な国家が興った。その一つサータバーハナ朝は,最盛期(2世紀)にデカンのほぼ全域を支配し,半島東西の諸港を拠点とする外国貿易によって富み栄えた。西北インドでは,前2世紀の初頭以来ギリシア人,サカ族,パルティア人の侵入が相次いだ。…

【インド美術】より

…古代初期のはじめは都市遺構を除けば見るべき遺品に乏しく,石彫はマウリヤ朝治下の前3世紀に始まった。シュンガ朝,カーンバ朝,初期サータバーハナ朝と続く時代は,仏教徒が造形活動を主導し,仏塔(ストゥーパ)の造営と浮彫によるそれの荘厳が盛行し,西インドでは石窟寺院も開かれた。いかなる場合にも仏陀の姿を表現しないのがこの時期の特色である。…

【ナーシク】より

…周辺からの綿花,米,果物の集散と加工を行うほか,インド政府印刷局の工場がある。【応地 利明】 町の南方約8kmの山の中腹には仏教石窟があり,前1~後2世紀にサータバーハナ朝やサカ族のクシャハラータ家によって造営され,一部は5~6世紀に拡張や新造もされた。当地最古の小規模な第19窟には,サータバーハナ朝第2代王クリシュナ(前1世紀末期)のときの造営であることを示す刻文がある。…

※「サータバーハナ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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