グプタ朝(読み)グプタチョウ(英語表記)Gupta

デジタル大辞泉 「グプタ朝」の意味・読み・例文・類語

グプタ‐ちょう〔‐テウ〕【グプタ朝】

Gupta》ガンジス川中流域のマガダ地方から興り、北インドを支配した王朝。320年、チャンドラグプタ1世パータリプトラを都として建国。4世紀末ごろから最盛期を迎え、文学・哲学・宗教・美術が栄え、インド古典文化の黄金時代となった。5世紀末以降エフタルの侵入に苦しみ、6世紀の中ごろ滅亡した。

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精選版 日本国語大辞典 「グプタ朝」の意味・読み・例文・類語

グプタ‐ちょう‥テウ【グプタ朝】

  1. 古代インドの王朝。ふつうは四世紀の初めから五世紀末まで栄えた前期グプタ朝をさすが、ひろくは六世紀の初めから八世紀前半まで栄えた後期グプタ朝を含める。三二〇年、チャンドラ=グプタ一世は即位と同時にグプタ暦を制定。その後二代の間に北インドの大領域を支配し、インド古典文化の黄金時代を作り出した。カーリダーサの劇と詩、グプタ様式の彫像、アジャンタの石窟寺院の大壁画などは特に有名。グプタ。

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改訂新版 世界大百科事典 「グプタ朝」の意味・わかりやすい解説

グプタ朝 (グプタちょう)
Gupta

古代インドの統一王朝。320-550年ころ。クシャーナ朝滅亡後の北インドの分裂状態のなかで,マガダ地方の小地域の支配者から興起した。

初代チャンドラグプタ1世は,マウリヤ朝の創始者と同じ名をもち,同じくパータリプトラ(現,パトナ)に都し,バイシャーリーVaiśālīの名族リッチャビ族の娘と結婚して,その威信を高めて,ビハールとウッタル・プラデーシュの諸国を征略して,ガンガー(ガンジス川)中流域の覇権を握った。319・320年にあたる〈グプタ紀元〉元年は,王が即位した年であろう。その子サムドラグプタは,その軍事的功業,才能と威徳をたたえたアラーハーバード石柱碑文によれば,ガンガー流域一帯に領土を拡大し,ラージャスターン,中央インドからデカン東部にかけての諸王を服属させ,南インドのカーンチーに都したパッラバ朝の領土まで遠征し,さらに周辺の諸部族や異民族,遠くはスリランカからも貢租を納めさせたという。この広大な領域を継承したチャンドラグプタ2世は,古くから栄えた都市ウッジャイニー(ウッジャイン)を占領して,南北の交通の要衝マールワー地方を抑え,そこからグジャラートを征服して,3世紀間にわたって西部インドを支配したサカ(シャカ)族を滅ぼした。このようにしてグプタ朝は3代,約85年間にベンガル湾からアラビア海に及ぶ北インド一帯を統一して大帝国を建設した。その隆昌のようすは,5世紀初めに北インドを訪れた法顕によって記されている。

 第4代クマーラグプタ1世Kumāragupta Ⅰの末年から,エフタルが西北インドに侵入し,カシミールから中央インドに進出した。このため,グプタ帝国の西部領域の支配は乱され,西方世界との貿易は妨げられ,財政は悪化して,美麗で良質な金貨の粗悪化,貨幣鋳造量の著しい減少をもたらした。第5代スカンダグプタSkandaguptaは安定した地方支配の回復に努めて功を収めたが,467年ごろの王の死後,帝国は衰運に傾いた。その後ナラシンハグプタNarasiṃhaguptaはガンガー流域からエフタルを撃退したというが,帝国の衰退に乗じて,諸地方の支配者が帝国の統制から離れて自立化したために,帝国の領域はビハールを中心とする地域のみに狭められて,550年ごろ滅亡した。

グプタ朝は,クシャーナ朝の〈王の王〉〈大王〉という称号に対して,一段と高位の〈大王の王〉を意味するサンスクリットの称号を称し,さらに〈至高の君主〉〈至高のビシュヌ信者〉という称号をも称し,王はその才能や威力を神のそれと比べられ,帝王が神聖視されるようになった。また歴代の王はバラモンの宗教と文化を尊重して,アシュバメーダ(馬祠祭)などのベーダ儀式を行い,ビシュヌを信奉して,この神の乗物であるガルダ鳥を王朝の標章とした。そしてバラモンの言語であるサンスクリットを公用語とし,バラモンを宮廷の祭官ばかりでなく,行政・軍事の職に任用した。こうして,宗教的権威と社会的特権を確立していたバラモンたちは,帝国の支持のもとに彼らの政治・社会理念を領域に広く浸透させていった。そしてベーダの祭式に通じたバラモンに対する村落と土地の施与は,グプタ時代から盛んになり,それは,彼らを村落に定住させ,租税免除などの特権を与えて生活を安定させ,王のための祭式を行わせるとともに,村落社会の秩序の維持にあたらせるものであった。バラモンの村落は地域の学問・文化の中心となり,未開発の地域ではバラモンの指導のもとで開拓が進められた。

 グプタ帝国は,マウリヤ時代以来発展したインドの支配体制を再編成して官僚制度を整備した。とくに地方の支配に力を注ぎ,ガンガー流域では,村落を基礎として,郡(ビシャヤviṣaya)と県(ブクティbhukti)を設けて地方行政機構を再編成し,各郡県に官吏を配置して体制を確立した。このもとで,北インドの諸都市は繁栄をきわめ,金貨をはじめ貨幣が多量に鋳造されて流通した。都市には商人,金貸,職人がそれぞれのギルドをつくり,その長老が各集団を統率した。各ギルドの長老たちはいっしょになって,官吏のもとで都市行政の一翼を担った。だが帝国の衰退と同時に,前6・前5世紀以来栄えてきた都市は衰微し,商人たちもギルドも変質した。村落では,クトゥンビンkuṭumbin(家長の意)と呼ばれた土地所有階級が中核となり,職人や雇農も多かった。最下層には奴隷がおり,またチャンダーラと呼ばれた賤民は社会生活や職業のうえでも厳しい差別を受けた。この村落社会を統率したのは村長と村老であって,ともに世襲的であったようである。そして,村長の指導階層は,都市のギルドの長とともに,郡の社会秩序を統制する機関のメンバーとなって,帝国の地方支配体制の一翼を担った。
執筆者:

グプタ帝国の繁栄を背景に,北インドの諸文化は飛躍的な発展をとげ,真にインド的な民族文化は絶頂を迎えた。造形美術の面でも清新な理念と洗練された技法により古典様式の完成をみた。美術史上では,グプタ様式がハルシャの帝国の瓦解まで続いたと考えて,4世紀初期から7世紀中期までをグプタ時代とする。また6世紀初期以後を後グプタ(ポスト・グプタ)時代と呼んで区別することもある。依然として仏教美術が主流であるが,ヒンドゥー教もこの時代から造形活動を開始する。

4世紀の遺品は少なく,造寺造像が活発化するのは5世紀になってからであり,しかもこの王朝の本拠地であるマガダ地方においてではなく,マトゥラーもしくはマールワー地方で始まったと思われる。マトゥラー様式は,440年前後に様式が完成したと考え得る。仏像は目を半ば閉じて落着きと威厳をそなえ,〈通肩〉と呼ばれる両肩をおおってまとった衣は体に密着し,その衣全体を細い陽刻線による流麗な襞がおおい,蓮華文その他による頭光の華やかな意匠も比類ない。マトゥラーではジャイナ教やヒンドゥー教彫刻も頂点を迎えた。一方,マールワー地方では,ラーマグプタのころにすでにかなりの発展段階にあったことが知られ,次いで401年の銘があるウダヤギリ石窟には,生命力の横溢したヒンドゥー教彫刻の傑作がのこされている。その他この地方では,サーンチーの仏教彫刻,エーランデーオーガルのヒンドゥー教彫刻も重要である。マトゥラーとともにこの時代の仏教彫刻の二大中心地であるサールナートでの造像は5世紀末期に最も栄えた。仏像の体に密着した薄い衣には襞をまったく表さずその相好は半眼に閉じて瞑想し,温和にして静寂な仏陀の理想美を達成した。このサールナート様式は,以後のガンガー下流域の美術に大きな影響を与えた。なお,アジャンターその他の西インドの石窟の彫刻もサールナート派との関係が考え得る。

彫刻と並んで壁画も高度に発展したが,遺品はアジャンター石窟のそれにほぼ尽きる。アジャンター壁画の頂点に位置する第16,17窟(5世紀末期),第1,2窟(6世紀初期)のそれは,グプタ朝と縁戚関係にあったバーカータカVākāṭaka朝の庇護のもとに制作されたもので,テンペラ画の技法により,尊像,仏教説話,装飾文様などを描く。宗教画でありながら当時の華やかな風俗を反映したものが多く,彩色は鮮やかであり,描線は闊達である。バーグ石窟にも壁画があるが,剝落,褪色ともにはげしい。スリランカのシーギリヤにある雲上で散花する天女群の壁画は,グプタ様式を伝えた5世紀末期のものと考えられている。

この時代の建築物は,石窟を除けば現存するものは少ない。構築寺院は石造が多く,仏教,ヒンドゥー教を問わず,祠堂はサーンチー第17祠堂に代表されるように,方形プランの前面に柱廊をもうけた平屋根の重厚なものが一般的である。また仏教のそれには,長方形のプランの奥壁を半円形としボールト天井をもつものもある。中世に発達する高塔寺院もこの時代には出現し,ビータールガオンの煉瓦積みヒンドゥー教寺院はその早期の遺例である。西インドの仏教石窟の造営は,2世紀あまりの中断期間ののち,5世紀に再び盛んになり,アジャンター,アウランガーバード,カンヘーリー,バーグ,エローラなどが重要である。それらでは紀元前後の石窟に見られた木造建築のなごりが少なくなり,形が整い,大規模なものも現れ,豊富な浮彫で飾られた。ヒンドゥー教石窟も開かれるようになり,マールワー地方のウダヤギリ石窟が最古の例である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「グプタ朝」の意味・わかりやすい解説

グプタ朝
ぐぷたちょう
Gupta

古代インドの王朝(320年~6世紀なかば)。グプタ王家は初めガンジス川中流域マガダ地方の小勢力であったが、チャンドラグプタ1世(在位320~335ころ)の代に名門リッチャビ一族のクマーラデービーを妃(きさき)に迎えることによって地位を高め、領土を広げて「大王のなかの王」「最高の君主」と称した。320年に始まるグプタ暦は、この王の即位を記念して定められたものである。その子で王位を継いだサムドラグプタ(在位335ころ~375ころ)は大征服者として知られる。王の功業はアラハバードの石柱に刻まれた頌徳(しょうとく)詩(将軍ハリシェーナ作)に伝えられているが、誇張的表現に富んだその詩文によると、この王は南インドを含む各地に遠征して諸国を屈伏させたため、遠くスリランカやアフガニスタンに至る諸国の王までが、臣従を誓い貢ぎ物を送ってきたという。王はまた、自己の権力を誇示するために、古来「帝王」のみがなしうるとされてきたバラモン教の祭式アシュバメーダ(馬祠祭(ばしさい))を挙行している。ただしサムドラグプタが直接支配したのはガンジス川流域のみであり、他の地方は帰順した旧来の諸王の支配にゆだねられている。グプタ朝の帝国支配はこのように地方分権的性格をもつものであり、中央集権的支配を採用したマウリヤ朝とは異なっていた。

 第3代のチャンドラグプタ2世(在位375ころ~414ころ)も、父王の偉業を継いで、西インドに残存していたサカ人の勢力を討ち、その地をグプタ領に併合している。ビクラマーディティヤ(超日王)とよばれるこの王の時代に、グプタ朝は最盛期を迎えた。中国僧の法顕(ほっけん)の旅行記『仏国記』に、当時のインドの平和と繁栄のようすが伝えられている。第4代のクマーラグプタ1世(在位414ころ~455ころ)と第5代のスカンダグプタ(在位455ころ~470ころ)の時代にもグプタ朝の勢力は維持されたが、5世紀末に始まる中央アジア系フーナ人(エフタル)の侵入によって大打撃を受け、6世紀に入ると地方政権が各地で独立したことも重なって急速に衰退した。グプタ朝は6世紀なかばごろ滅んだが、末期の模様についてはほとんどわからない。なお、マガダ地方にはその後も8世紀初めごろまで、グプタ朝の後裔(こうえい)と称する小政権(後期グプタ朝)が存在していた。

[山崎元一]

社会・経済

法顕は、グプタ朝のもとで経済的な繁栄がみられたこと、領内の交通が自由かつ安全であったことを記している。また4世紀ごろの文学作品『ムリッチャカティカー(土の小車)』や『カーマスートラ』、あるいは5世紀初めに出たカーリダーサの作品などには、華やかな都市生活が描かれている。当時における活発な経済活動は、金貨にもっともよく示されている。グプタ朝初期の諸王は大量の金貨を発行した。それらはクシャン朝後期の金貨の基準に従ったものであるが、純度は高く意匠も洗練されている。しかしグプタ朝も後期に入ると、都市の商工業はしだいに衰え、経済活動は村落社会を中心とする地方的で小規模なものへと変化してゆく。こうした経済的変化や政治的衰退に伴い、金貨の純度は低下し発行量は減り、意匠も劣悪なものになった。

[山崎元一]

文化

グプタ朝時代はインド古典文化の黄金時代として知られる。大征服者サムドラグプタはビーナ(琵琶(びわ))の名手かつ詩人であったが、他の諸王も文芸を愛好しこれを保護した。サンスクリット文学の分野では、詩聖と称される宮廷詩人カーリダーサが出て、戯曲『シャクンタラー』や叙情詩『メーガドゥータ(雲の使者)』を書いた。美術の面では、優雅なグプタ式仏像に代表される純インド的な作品が生まれた。デカンではこの時代にアジャンタ石窟(せっくつ)寺院の壁画の代表作が描かれている。またグプタ時代の前後には、天文学、物理学、数学、医学などの諸科学も発達した。

[山崎元一]

宗教

仏教はかつての勢いを失っていたが、各地の僧院を中心に学問的研究が続けられ、多くの学僧が出た。後世に仏教教学の大中心となったナーランダー寺院は、5世紀前半にクマーラグプタ王の援助を得て創建されたものである。バラモン教はマウリヤ朝以後しだいに退勢を挽回(ばんかい)しつつあったが、グプタ朝時代に王室の保護を受けて栄えた。六派哲学とよばれるバラモン教諸学派の哲学体系も、この時代にいちおうの成立をみている。アーリア的なバラモン教に非アーリア的な民間信仰が融合して生まれたヒンドゥー教も、王家や民衆の間に浸透しつつあった。ヒンドゥー教の寺院が建造されるようになるのも、この時代からである。

[山崎元一]

『山崎利男著「クシャーン朝とグプタ帝国」(『岩波講座 世界歴史3 古代3』所収・1970・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グプタ朝」の意味・わかりやすい解説

グプタ朝
グプタちょう
Gupta

4~6世紀,北インドを支配した王朝 (320~550頃) 。クシャン朝衰退後,現ビハール南部 (マガダ) から興り,320年,チャンドラグプタ1世がガンジス中流域の覇権を握って王国を建てた。その子サムドラグプタ,孫チャンドラグプタ2世の2代の間,北インドのほぼ全域を支配し,さらにバーカータカ朝と婚姻関係を結んで,デカンにも勢力を及ぼした。こうして王朝は強大な国家となり,中央,地方の支配体制を整備して,繁栄を誇った。そのありさまは中国僧の法顕の『仏国記』に記されている。しかし,5世紀後半,北西方からエフタル族が侵入し,そのため西部領域が動揺すると,それに乗じて諸勢力が王朝から離れて独立したため,王朝は東部領域を支配するだけになり,550年頃滅びた。この時代は古典時代といわれ,インド古典文化の爛熟した花が咲き誇ったときである。王朝はバラモンを保護し,サンスクリットを公用語とし,ビシュヌやシバを信奉したので,ヒンドゥー教が盛んになり,多くの寺院が建てられた。サンスクリット文学は詩聖と呼ばれたカーリダーサなどによって多くの傑作が作られ,宗教,思想の面でもすぐれた著作が現れた。また仏教では,ナーランダーなどに大寺院がつくられ,大乗教学が無着世親によって完成した。マトゥラなどの端麗な仏像とアジャンタの壁画もこの時代の作品である。

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百科事典マイペディア 「グプタ朝」の意味・わかりやすい解説

グプタ朝【グプタちょう】

320年―550年ころに北インド全体を統一支配した王朝。320年チャンドラグプタ1世がマガダ地方に興起し,ガンジス平原を征服して即位。その子サムドラグプタと孫チャンドラグプタ2世が南北にわたるインドを平定し,マウリヤ朝以後初めての統一国家を形成した。保守的傾向の強い中央集権国家であったが,経済的な力も強く,その直接間接の支配範囲はアショーカ王のそれにほぼ等しかった。文化面ではインド古典文化の完成期にあたり,サンスクリット文学,グプタ美術が隆盛した。また,帝王を神聖視し,職業世襲化の傾向が目立ってきた。サンスクリット文学ではカーリダーサが現れ,美術においてはアジャンターサールナートの仏像彫刻などが知られる。しかし5世紀中ごろになると,宮廷内の不和や,中央アジアの遊牧民族エフタルの侵入もあって急速に衰退し,6世紀には地方領主が狩立するなどして滅亡した。
→関連項目マガダ南アジア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「グプタ朝」の解説

グプタ朝(グプタちょう)
Gupta

320~550頃

古代インドの王朝。マガダの小地域の支配者であったが,チャンドラグプタ1世がガンジス川中流域の覇権を握って以来,「大王たちの王」を称する強力な王朝となった。次のサムドラグプタによるガンジス川流域諸勢力の併合とデカン,南インドへの遠征や,チャンドラグプタ2世による西インドのシャカ族およびベンガルの征服により,その支配は北インド全域と中央インドに及んだ。支配地域のうち,ビハールとベンガルは直轄地であったが,あとは従属する王たちの領地であった。5世紀半ばよりエフタルの進入を受けたが,スカンダグプタはこれを撃退した。しかし,のちの代にも進入を受け,また従属する王たちが独立していったため,しだいにビハールとベンガルに支配地域を限定され,6世紀半ばまでに滅びた。この時代には,カーリダーサに代表されるサンスクリット文学,絵画・彫刻にみられるグプタ美術などの文化が花開き,またのちのヒンドゥー教発展の素地ができあがった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「グプタ朝」の解説

グプタ朝
グプタちょう
Gupta

320ごろ〜550
古代インドの王朝
ガンジス川中流のマガダ地方におこり,4世紀初めのチャンドラグプタ1世以後強大となり,北インドを統一,4〜5世紀のチャンドラグプタ2世の時代に最盛期となって繁栄した。都はパータリプトラ(現パトナ)。ヒンドゥー教が発展したほか,サンスクリット文学や仏教美術などが栄え,古代インドの黄金時代を現出した。5世紀末以後,北西地方のエフタルの侵入を受け,6世紀半ばには分裂して衰えた。

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世界大百科事典(旧版)内のグプタ朝の言及

【インド】より

…王を補佐するのはプローヒタpurohita(宮廷祭官)などのバラモンであって,彼らは行政や軍事の職に多く採用された。これらの古典は3世紀までに完成し,バラモンの宗教と文化を採用したグプタ朝はこの政治理念を尊重し,それ以後長く踏襲された中央・地方の政治体制を樹立した。それと同時に,バラモンに対する村落,土地の〈施与〉が一般化し,バラモンは地方の社会秩序の維持にあたり,ヒンドゥー教とバルナ秩序の浸透に努めた。…

【地主】より

…しかし,王と直接耕作者との間にはいまだ地主や領主などの中間階層は存在しなかった。グプタ朝時代には土地の私有化がいっそう進み,クトゥンビンと呼ばれる階層を中心に村落の土地は個々に私有された。また,王領地の寄進を受けたバラモン,寺院などが地主化する傾向も現れた。…

※「グプタ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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