ガルニエ(英語表記)Robert Garnier

改訂新版 世界大百科事典 「ガルニエ」の意味・わかりやすい解説

ガルニエ
Robert Garnier
生没年:1544-90

フランスの詩人,劇作家。ロンサールの友人で,パリの高等法院付き弁護士となり,後にル・マンの法官職につく。作品の中に恋愛詩等もあるが,8編の悲劇によって16世紀フランス最大の劇作家とされる。《ポルシー》(1568),《イポリット》(1573),《コルネリー》(1574),《マルク・アントアーヌ》(1578),《トロイアの女》(1579),《アンティゴーヌ》(1580),《ブラダマントBradamante》(1582),《ユダヤの女たち》(1583)の8編は,題材をギリシア悲劇,セネカの悲劇のほか,聖書やアリオスト等にとり,創作ではない。作風は人文主義悲劇の伝統を継承するが,活発な場面の展開,力強く華やかな文体によって,バロック悲劇への推移を示す。《ブラダマント》は,悲劇から派生した新ジャンルの悲喜劇の最初の作品である。作品が創作時に実際に上演されたか疑問視されたが,最近の研究では上演されていたと推定されている。テキストとして後世の劇作家に読まれて,ユゴーなどに影響を与えた。
執筆者:


ガルニエ
Marie Joseph François Garnier
生没年:1839-73

フランスの軍人,探検家フランシス・ガルニエともいう。メコン川ソンコイ川の踏査によりベトナム植民地化への道を開いた。1866年中越交易路発見のため,ラグレのメコン踏査隊に参加するが失敗。72年フランスの商人J.デュピュイのソンコイ川通航がベトナム官憲の妨害を受けると,73年11月コーチシナ総督の命によりハノイに上陸し,交渉が停頓すると直ちにハノイ城ほかソンコイ・デルタ主要都市を占領した。ソンコイ・ルートの支配者黒旗軍はグエン(阮)朝の命をうけてこれを攻撃し,12月ガルニエはハノイで敗死する。これを利用したフランス政府は74年第2次サイゴン条約を結んでソンコイ川通商権を獲得した。しかしこの条約に不満なフランス産業資本は,やがて82年の第2次侵略(リビエール事件)を用意する。
執筆者:


ガルニエ
Charles Garnier
生没年:1825-98

19世紀後半のフランスを代表する建築家。パリ生れ。ラブルーストらより約1世代遅れてエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教育を受け,1848年23歳でローマ大賞を受ける。パリのほか南フランスにもいくつかの作品を残したが,とりわけパリのオペラ座(1875)が知られる。ほかにモンテ・カルロのカジノ(1882),ビッテルVittelの温泉(1884)などがあり,いずれも雄大なスケールでネオ・バロック建築の名にふさわしい。
執筆者:


ガルニエ
Tony Garnier
生没年:1869-1948

フランスの建築家。リヨン生れ。パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に学び,1899年ローマ大賞を獲得。ローマ留学の最後に課題研究として〈工業都市〉の計画をまとめ,装飾を排除した機能的な建築を提案した。帰国後,郷里の美術学校で教鞭をとり,同時に市長の後押しでリヨン郊外にこの〈工業都市〉を部分的ながら実現。彼の機能主義の論理は,地中海的な感性と相まって,20世紀初頭の近代建築の発展に大きく寄与した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガルニエ」の意味・わかりやすい解説

ガルニエ(Marie Joseph François Garnier (Francis Garnier))
がるにえ
Marie Joseph François Garnier (Francis Garnier)
(1839―1873)

フランスの海軍士官。1860~1862年に中国とアンナンに軍事遠征を行い、1866年にはドゥダール・ド・ラグレErnest Marc Louis Gonzague Doudart De Lagrée(1823―1868)の探検隊に加わってメコン川流域を探検した。プロイセンフランス戦争では帰国してパリ防衛戦で戦ったが、その後インドシナに戻り、中国に渡って揚子江(ようすこう)流域を探検した。1873年、コーチシナ総督の命を受けてハノイに侵攻し、清(しん)朝の黒旗軍の迎撃にあって戦死した。

[本池 立]


ガルニエ(Tony Garnier)
がるにえ
Tony Garnier
(1869―1948)

フランスの建築家。オーギュスト・ペレと並ぶ現代建築の先駆者。リヨン生まれ。同地の美術学校に学び、1899年ローマ大賞を獲得してローマに留学。建築における鉄筋コンクリートの重要性をいち早く理解しただけでなく、都市を一つの有機的組織体として把握、また彼の社会主義的な考え方はリヨン市長エリオの共鳴をよび、一連の公共建築を委任される。公営と畜場(1909~13)、競技場(1913~16)、医療施設(1915~30)、電話交換局(1927)、「レ・ゼタジュニ」とよばれる住宅地(1928~35)などを設計。鉄筋コンクリート構造の特質を生かしたピロティや陸(ろく)屋根、ガラス窓は近代建築の典型となった。ローマ留学のころから手がけた産業都市の計画案は『工業都市』(1917)として出版され、後世に大きな影響を与えた。

[篠塚二三男]


ガルニエ(Robert Garnier)
がるにえ
Robert Garnier
(1544―1590)

フランスの悲劇作家。若くして詩作を始め、司法官のかたわら悲劇を書いた。初めはセネカ風の教訓を含んだ作品『ポルシィ』(1568)など、ついでギリシア悲劇風の『アンチゴーヌ』(1580)などを発表。代表作『ブラダマント』(1582)はフランス最初の悲喜劇として評価され、『ユダヤ女たち』(1583)は単調な長台詞(せりふ)が多い欠点はあるが、後の古典悲劇への道を開いた佳作とされている。

[伊藤 洋]


ガルニエ(Jean Louis Charles Garnier)
がるにえ
Jean Louis Charles Garnier
(1825―1898)

フランスの建築家。パリ生まれ。1848年ローマ大賞を得てローマに留学、アテネなどを回り54年に帰国。61年パリのオペラ座の改築コンクールに優勝、75年に落成、第二帝政下の華麗な様式を表現し、劇場建築の模範と仰がれた。モンテ・カルロのカジノ(1878)、ボルディゲーラの別荘(1872)などの建築のほか、『パリの新オペラ座』(1878~81)などの著作もある。パリで没。

[篠塚二三男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガルニエ」の意味・わかりやすい解説

ガルニエ
Garnier, Tony

[生]1869.8.13. リヨン
[没]1948.1.19. ロックフォールラベドル
フランスの建築家,都市計画家。近代建築の先駆者の一人。ローマ留学中の 1898年に設計した「工業都市」計画案が 1899年にローマ大賞を受賞,不朽の名声を得た。これは都市計画としても優れているが,そのなかの個々の建築物の設計において,当時まったく新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用し,すでにピロティ形式やカンチレバー (片もち梁) 構造が構想されているなど,時代に一歩先んじた計画案であった。この計画案は,1917年に出版された。 1904年リヨン市に帰ると,市長の E.エリオの支援を受けて,リヨン市建設の仕事に生涯を捧げ,市立酪農場 (1904~05) ,食肉加工場 (1909~13) ,スタジアム (1913~18) ,22の病棟をもつグランジュブランシュ病院 (1911~27) などを建設したほか,パリ近郊のブーローニュビヤンクールの市庁舎 (1931~34) を建てた。

ガルニエ
Garnier, Robert

[生]1545. ラフェルテベルナール
[没]1590.9.20. ルマン
フランスの劇作家。力強い詩句を駆使して古典悲劇の様式を確立したルネサンス期の代表的劇作家。ツールーズで法律を修めるかたわら詩作も行なった。 1567年パリ高等法院の弁護士に赴任,翌年帰郷。 83年までに7つの戯曲を発表,不和と災害を描き,宗教戦争によって荒廃したフランスを君主政治への尊敬と協調に導こうとした。作劇法の精緻さ,筋の運びの円滑さに欠ける点もあるが,会話は表現に富む。おもな作品『ポルシー』 Porcie (1568) ,『アンチゴネ』 Antigone ou le pitié (80) ,『ブラダマント』 Bradamante (82) ,『ユダヤの女たち』 Les Juives (83) 。

ガルニエ
Garnier, Marie Joseph François

[生]1839.7.25. ロアール,サンテティエンヌ
[没]1873.12.21. ハノイ
フランスの海軍士官,探検家。清仏戦争の際,軍人として出征,その後ラグレの探検隊に参加して,メコン川に沿ってさかのぼり,各地を探検した。 1866~68年メコン川の上流から中国の雲南地方に入り,この地方の実情を調査し,さらに揚子江を経て上海に出たあと,サイゴンに戻った。この探検は前後2年にわたる困難なものであったが,多くの成果を得,そのときの記録は 73年に『インドシナ探検旅行』 Voyage d'exploration en Indochineという報告書で刊行されている。 73年太平天国の残党である黒旗軍との戦闘で死亡。

ガルニエ
Garnier, Charles

[生]1825.11.6. パリ
[没]1898.8.3. パリ
フランスの建築家。車大工の子で,1842年エコール・デ・ボザールに入学,48年ローマ大賞を獲得,その後5年間ローマ,トルコ,ギリシアで研究。 60~61年の新しいパリのオペラ座の競技設計に優勝。その作風は第二帝政時代の風潮を反映して,豪奢できらびやかである。その他の作品にモンテカルロのカジノ (1878~81) ,ボルディゲラのビラ (72) など。また著書に,"Etude sur le Théâtre" (71) ,"Le Nouvel Opéra de Paris" (76~81) がある。

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百科事典マイペディア 「ガルニエ」の意味・わかりやすい解説

ガルニエ

19世紀後半のフランスを代表する建築家。パリ生れ。1848年ローマ大賞を得て,ローマに留学。トルコ,ギリシアなどにも遊学し,以後フランスで活動。ベネチア・ルネサンス様式にバロック風を加味した作風で,代表作とされるパリのオペラ座は長く劇場建築の模範とされた。

ガルニエ

フランスの建築家。1899年ローマ大賞を受けてイタリアに留学後,生地リヨンで活躍。斬新なアイデアによる緻密(ちみつ)な都市計画と革新的な鉄筋コンクリート建築は近代建築に大きな示唆を与えた。作品にリヨン工業都市計画案,リヨン市屠畜場などがある。

ガルニエ

フランスの海軍士官,探検家。フランスのインドシナ進出時代にメコン川,ソンコイ川を踏査し,ベトナム植民地化に寄与した。さらに雲南を経て長江上流付近まで探検,1873年ハノイで黒旗軍(劉永福の率いる中国農民軍)と戦って戦死。

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世界大百科事典(旧版)内のガルニエの言及

【オペラ座】より

…現在の劇場はその時点から数えて13番目に当たり,19世紀の劇場・歓楽街であったいわゆるグラン・ブールバールの右寄りの地点に位置する。C.ガルニエの設計になり,1862年に着工,75年に完成した第二帝政様式の建築の最も重要なもの。観客席数2167,舞台面積1200m2,間口16m,奥行き37m,舞台奈落から天井まで17階,客席は全部で5階に配分され,当時はもちろん現在でも,いわゆるイタリア式額縁舞台としては最大のものに属する。…

【近代建築】より

…またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatole de Baudotらによる試みをさらに発展させた。都市のイメージに対しても,1918年T.ガルニエが〈工業都市〉案を提出し,中世都市をモデルとする都市理念を払拭した。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの影響を受けて1907年ドイツ工作連盟Deutscher Werkbundが設立され,ここでは機械生産(大量生産と規格化)を前提としたデザインが提唱されてゆく。…

【都市計画】より

…彼の都市計画案がそのまま実現した例は,シャンディガールなどわずかで,ほとんどないといってよいが,今日の都市計画とくに既成市街地の再開発に与えた影響は見のがすことができない。このほかソリア・イ・マータArturo Soria y Mata(1844‐1920)やミリューチンNikolai Aleksandrovich Milyutin(1889‐1942)によって提案された帯状都市,T.ガルニエ提案の工業都市,ゲッデスPatrick Geddes(1854‐1931)の計画理論,F.L.ライトのブロード・エーカー,C.ジッテ,チーム・テン,リンチKevin Lynch(1918‐ )の都市設計論など数多くの独創的な理想都市の提案がある。
【近代都市計画の発達】
 現代の都市計画は産業革命以後,資本主義の発達に伴う急激な都市化に対応し,深刻化する都市問題に解決を見いだそうとする社会・経済の流れの中で成長した。…

※「ガルニエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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