百科事典マイペディア 「アンナン」の意味・わかりやすい解説
アンナン
→関連項目グスク|角倉了以|琉球貿易
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ベトナムに対する外国からの呼称。またはフランス領インドシナ時代の中部ベトナムをさす。本来は南方の安寧を意味する中国語であるため、現在ではまったく用いられない。北部ベトナムは紀元前1世紀以来、中国の植民地になっていたが、隋(ずい)代に至って交州大総管府、続いて交州都督府が置かれた。唐はこの地に六都護府の一つとして、安南都護府を設置(679)し、現在の北部ベトナム全域から中部ベトナム北半までを所管とした。アンナンの名はこれに始まる。10世紀以降、ベトナムは独立して自らダイコベト(大瞿越(だいくえつ))、ダイベト(大越)、ベトナム(越南)、ダイナム(大南)を国号としたが、中国は19世紀までほぼ一貫してベトナム王を安南国王とし、その国家を安南国とした。このため周辺諸国もこれに倣い、アンナンの呼称が一般化した。
とくに16世紀以降の南海交易の発展のなかで、絹と陶器の産地である北部ベトナムは、アンナンとして日本、ヨーロッパに記憶された。これに対し、広南朝(クアンナム朝)の拠(よ)った中部ベトナム以南はコーチシナ、広南とよばれた。19世紀に至って、阮福映(グエン・フク・アイン)がほぼ現在のベトナムの地を統一すると、以後その王国全体がアンナン帝国(王国)とよばれた。しかし1862年サイゴン条約によってフランスは南部ベトナムを切り離して直轄植民地とし、これをコーチシナ(交趾支那)とよんだ。さらに1884年フエ条約によって北部の施政権を奪うと、これをトンキン(東京)とした。この結果アンナン王国(越南)は中部ベトナムのみの地域呼称となり、1902年にインドシナ連邦中のアンナン保護王国として法定された。1945年、当時インドシナに駐留していた日本軍の対フランス・クーデターによって、ベトナム帝国が生まれるまでは、もっぱらこの意味で用いられることが多い。
[桜井由躬雄]
ベトナムに対する外国人の呼称。またはフランス領インドシナ時代の中部ベトナムを指す。現在はまったく用いられない。北部ベトナムは前1世紀以来,中国の植民地になっていたが,唐にいたってこの地に安南都護府が置かれた。安南の呼称はこの都護府の名に由来する。10世紀のベトナム独立後も中国は19世紀にいたるまで安南国と呼びつづけ,周辺諸国もこれにならった。16世紀以降では絹と陶器の産地である北部ベトナムがアンナンとして,日本,ヨーロッパに知られた。19世紀にいたってザロン(嘉隆)帝が全土を統一するや,王国全体がアンナン王国とよばれた。しかし1862年フランスは南部ベトナムを奪って直轄植民地とし,これをコーチシナとよび,また84年北部を保護領としてトンキンとよんだため,中部ベトナムの保護王国のみがアンナンとよばれ,1902年にはこの名が法定された。45年インドシナ駐留日本軍の対仏クーデタによって,ベトナム(越南)帝国が誕生してから,アンナンの呼称は公式に消滅した。
執筆者:桜井 由躬雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国その他外国人がベトナムを呼ぶのに用いた名称。唐が南の辺境地帯を統治する機関として設けた安南都護府にこの名の起源がある。この都護府は679年に設置され,北圻(ほくき)(トンキン地方)と中圻北部(横山付近まで)を統治し,治所は宋平県(ハノイ)にあった。10世紀にベトナムが独立して以後も中国では歴代安南の名称を用い,阮(グエン)朝になって清は越南(えつなん)の名を採用したが,フランスの支配時代にはアンナンが広く用いられた。また当時北圻,南圻(コーチシナ)と並んで中圻の地を限ってアンナンと呼んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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