改訂新版 世界大百科事典 「コーチシナ」の意味・わかりやすい解説
コーチシナ (交趾支那
)
Cochinchina
フランス領インドシナ連邦のうち,南部の直轄植民地の名称。またクアンナム(広南)朝をアンナン(安南)王国と区別してコーチシナ王国と呼んだこともある。現在のベトナムでは全く使われず,ナムボ(南部),ナムファン(南分),ナムキ(南圻),ミエンナムなどと呼ぶ。コーチシナは本来,マレー人がベトナムを指してクチKuchiと呼んだのを,1502年ポルトガル人がKuchim,Kuchinと借用し,これをインドのポルトガル植民市コーチンCochim,Cochinと区別するためにChinacochimとしたことによる。原義はシナ(支那)のコーチンの意であろう。以後,17世紀頃からCouchinchina,Cochinchinaの名がヨーロッパ人の間で一般化した。17世紀以降はもっぱらクアンナム朝の領域(中部ベトナム)をコーチシナと呼ぶようになった。クアンナム朝は次第に南進して,18世紀にはほぼ現在のメコン・デルタを完全に領域化するが,コーチシナの名称もこれとともに南下する。19世紀初頭ザロン(嘉隆)帝による国土統一が成った後も,ヨーロッパ人はこの国家全体をコーチシナと呼ぶのが一般であった。1862年サイゴン条約によって南部3省がフランスの直轄植民地になると,フランス人はこの地方を他省と区別して下コーチシナと通称した。しかし1870年から80年にかけて次第に中部をアンナン(安南)と呼ぶことが一般化し,コーチシナは南部に限られるようになった。87年のフランス領インドシナ連邦成立とともに,ベトナムは保護領トンキン(北部),保護国アンナン(中部),直轄植民地コーチシナ(南部)に3分され,地理名称としてのコーチシナが固定化された。フランス領期における南部は,米田プランテーション地域として最も強く植民地体制に組み込まれたため,民族運動史においても立憲党やカオダイ,ホアハオ両教団のように,一貫して北部の共産党指導の運動とは一線を画していた。戦後も1946年にはサイゴンのブルジョアジーがコーチシナ共和国を建ててベトナム民主共和国から分裂自立し,この承認問題が第1次インドシナ戦争の一因となった。コーチシナ共和国は49年にバオダイ・ベトナム国に吸収され,コーチシナの名称は公式に消滅した。
→交趾(こうし)
執筆者:桜井 由躬雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報