1930年代のアメリカ映画を代表する大女優。スウェーデンのストックホルムの貧しい家庭に生まれる。帽子モデルからPR映画を経て王立演劇アカデミーに学び、マウリッツ・スティルレル監督『イェスタ・ベルリングの伝説』(1924)の主役で評判となる。ついでG・W・パプスト監督のドイツ映画『喜びなき街』(1925)に出演。1925年、スティルレル監督とともにハリウッドのMGMに引き抜かれて渡米、エキゾチシズムを看板にした大宣伝のもとに売り出され、『肉体と悪魔』(1927)などでたちまち人気スターの座についた。クールな顔だち、訛(なま)りのあるハスキーな声、書き立てられたゴシップ、それでいて一部謎(なぞ)に包まれた私生活が話題をよんでハリウッドに君臨する美の女王となった。『アンナ・カレニナ』(1927、再映画化1935)、『アンナ・クリスティ』(1930)、『グランド・ホテル』(1932)、『椿姫(つばきひめ)』『征服』(ともに1937)、『ニノチカ』(1939)などに出演、『奥様は顔が二つ』(1941)を最後に36歳で引退した。生涯独身を貫き、人目を避けて隠遁(いんとん)生活を送っていた。
[日野康一]
『A・ウォーカー著、海野弘訳『ガルボ』(1981・リブロポート)』
スウェーデン出身のアメリカの女優。ストックホルムに生まれ,奨学資金を得て王立演劇アカデミーで学ぶ。M.スティルレルの大作《イェスタ・ベルリングの伝説》(1924)に抜擢(ばつてき)され,さらにG.W.パプストのドイツ映画《喜びなき街》(1925)にも出演。スウェーデン映画の黄金時代をささえていたスティルレルとのかかわりは,〈ピグマリオンとガラテア〉あるいは〈スベンガリとトリルビー〉にたとえられ,スティルレルについてハリウッドへ〈輸入〉される。スティルレルは失意のうちに帰国することになるが,《イバニエズの激流》(1925)でハリウッドにデビューしたガルボは,〈スウェーデンのスフィンクス〉と宣伝されてスターへの道をたどり,〈神聖ガルボ〉〈永遠の夢の王女〉と呼ばれるムードを作り上げる。R.マムーリアンの大作でジョン・ギルバートと共演した《クリスティーナ女王》(1933)をはじめ《アンナ・カレーニナ》(1935),《椿姫》(1937)などでとくにヨーロッパ市場で人気を集め,その魅力をアメリカナイズしようとしたルビッチ製作・監督の《ニノチカ》(1939)ののち,《奥様は顔が二つ》(1941)を最後に24本のアメリカ映画を残して36歳で引退。いくつかの復帰企画は実現しなかったが,数冊の伝記,評伝が書かれ,〈伝説〉が作られた。ジャクリーン・スーザンの映画化(1975)された小説《いくたびか美しく燃え》は,一部ガルボをモデルにしているといわれる。
執筆者:柏倉 昌美
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…ノーベル賞受賞の女流作家セルマ・ラーゲルレーブの小説を次々に映画化し(《運命の焰》1919,《吹雪の夜》1919,《呪の絆》1920,《グンナール・ヘデ物語》1923,《イェスタ・ベルリング物語》1924),ビクトル・シェースレームと並んでスウェーデン映画の最初の黄金時代を築く。舞台で発見した女優グレタ・グスタフソン(のちのガルボ)を起用した《イェスタ・ベルリング物語》をベルリンで見たMGMの副社長ルイス・B.メイヤーに認められ,1925年,ガルボを伴ってハリウッドに〈輸入〉され,ポーラ・ネグリ主演の《帝国ホテル》(1926)など4本の映画をつくったが,芸術家気質と完全主義がハリウッドの風潮に合わず(ガルボ主演の《明眸罪あり》(1926)の監督は途中で下ろされている),スターへの道をあゆんでいくガルボとは反対に,失意のうちに帰国して45歳で病死した。【柏倉 昌美】。…
…次いでアナトール・フランスの同名の小説(1903)を映画化した《クランクビーユ》(1922)が,ドイツの表現主義映画と30年代のフランス映画の〈詩的リアリズム〉の橋渡しとなった作品として評価され,アメリカでも〈映画芸術の父〉といわれたD.W.グリフィス監督に激賞された。その後,アルプス山ろくの寒村を背景に少年と継母の心理的交渉を描いた《雪崩》(1923),写真屋に飾られた写真の女をもとめてさまようというジュール・ロマンのオリジナルシナリオによる〈ユナニミスム文学〉のロマンティックな映画化《面影》(1924),エミール・ゾラ原作の《テレーズ・ラカン》(1928)などをつくり,28年にはフランス国籍をとったが,ロベール・ド・フレールとフランシス・ド・クロアッセの喜劇をもとにした風刺映画《成上りの紳士たち》(1928)が議会と閣僚の威厳を非難するものとして公開禁止になり(1929年になって解除された),失意のうちにハリウッドへ渡り,グレタ・ガルボの最後のサイレント映画《接吻》(1929)を撮るとともに,ガルボ映画《アンナ・クリティ》のドイツ語版(1930)などをつくるが,ハリウッドになじめず31年に帰国した。 同じベルギー出身の脚本家シャルル・スパーク(1903‐75)との共同脚本と夫人のロゼー主演の《外人部隊》(1934),《ミモザ館》《女だけの都》(1935)は1930年代フランス映画の代表作であるにとどまらず,世界映画史を飾る作品に数えられているが,《女だけの都》はナチの侵入後ゲッベルスによって公開を禁止され,フェデルは戦争の間スイスへ避難することを余儀なくされた。…
…サイレント映画はワーナー・ブラザースで,初期のトーキー映画の多くはパラマウントでつくり,35年からはパラマウントの製作部長も兼任し,37年には〈25年間におよぶ映画への貢献〉にたいしてアカデミー特別賞をあたえられ,また翌38年には,フランスのレジヨン・ドヌール勲章を贈られた。 マルレーネ・ディートリヒ主演の《天使》(1937),ゲーリー・クーパー主演の《青髯八人目の妻》(1938)につづくMGM映画《ニノチカ》(1939)は,〈ガルボが笑う〉と宣伝されたグレタ・ガルボ最初の喜劇でもあるが,政治とセックスをからませて共産主義国家ソビエトを痛烈に皮肉った才気あふれる作品である。また,《生きるべきか,死ぬべきかTo Be or Not to Be》(1942)は,反ナチ喜劇の傑作とされる。…
※「ガルボ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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