インド美術(読み)いんどびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド美術」の意味・わかりやすい解説

インド美術
いんどびじゅつ

インド亜大陸(現在のインド、ネパール、ブータン、バングラデシュ、スリランカ、パキスタン、アフガニスタンの一部)で、紀元前三千年紀以来行われた美術の総称で、より厳密には「南アジア美術」。本項では慣例に従って「インド美術」とよび、「インド」をインド共和国に限定するのではなく、「南アジア」とほぼ同義に用いる。インド美術は、そのほとんどが、インド固有の仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教、あるいは外来のイスラム教に基づく宗教美術であり、強い宗教性と独得の官能性とを顕著な特色とし、アジア各地の美術に多大な影響を及ぼした。古代には仏教が造形活動を主導し、ヒンドゥー教美術は古代末期からしだいに盛んになり、中世前期に最盛期を迎えた。ジャイナ教はやや小規模ながら古代、中世を通じて長く独自の美術を展開した。しかしこれら3宗教の美術では、宗教による違いは少なく、時代や地域による差異のほうが大きい。中世後期には外来のイスラム教が普及し、従来のものとは異質な宗教建築を各地に残している。彫刻は石彫が大部分で、ほかにストゥッコ(塑土)、テラコッタ(焼成粘土)、ブロンズ(青銅)も用いられた。絵画のうち壁画の遺例はごく限られ、中世後期には細密画(ミニアチュール)が盛行した。建築用材は石が主で、ほかにれんがもある。インド固有の3宗教では、寺院は彫刻や壁画で荘厳(しょうごん)され、建築、彫刻、絵画は不可分の関係にある。

[肥塚 隆]

先史時代

インド美術の歴史はインダス文明に始まる。この古代文明は、インダス川流域を中心とする広範な地域で、紀元前2350年ごろから紀元前1700年ごろまで栄えた。少数の都市と多数の集落からなり、代表都市であるモヘンジョ・ダーロやハラッパーでは、整然とした都市計画のもとに公共の建物や一般住宅がれんがでつくられ、下水道が完備されていたが、神殿、宮殿、王墓などはみられない。都市遺跡にのみ出土する石やブロンズの彫刻は数少ないものの、小形ながら習熟した技法になり、きわめて写実的な作品もある。一方、テラコッタ彫刻や土偶は広く分布し、素朴な作風を示す。またこの文明の指標とされる印章は、おもに凍石(微粒な滑石の集合体)製で、未解読の文字とともに牛、一角獣その他の動物、樹神などを陰刻している。この文明は孤立したものではなく、後のヒンドゥー文化に継承されたと考えうる証拠も少なくない。

[肥塚 隆]

古代初期

前1500年を中心にアーリア人が移住し、インド文化の形成発展に重要な役割を果たした。しかしアーリア人が伝えたベーダの宗教(バラモン教)はもっぱら祭祀(さいし)を中心とし神殿や神像を必要としなかったため、それ以後約1000年間は資料的に空白である。仏教興起のころより耐久材料を用いた建築が現れ、前3世紀マウリヤ朝のアショカ王のころより造形活動は本格化する。すなわち王は、インド各地にストゥーパ(仏塔)を造立し、動物柱頭をもつ石柱を立てた。石彫技法は古代ペルシアから移入されたとしても、サールナート出土の4頭背中あわせのライオン柱頭に代表される洗練された作風は驚嘆に値する。また守護神像の制作もこのころより始まった。さらにテラコッタ彫刻に魅力ある作品が少なくない。

 前2世紀になるとストゥーパに石材が用いられ、仏教的な主題の浮彫りで飾られるようになった。ストゥーパは仏陀(ぶっだ)の遺骨を納める墳墓で、本体である半球形の覆鉢(ふくはつ)の周囲に欄楯(らんじゅん)(玉垣)を巡らし、正面または四方に塔門を建てるのが通例である。その欄楯や塔門には、仏伝(仏陀の伝記)や本生譚(ほんしょうたん)(仏陀の前生の物語)などの仏教説話や動植物文様その他が浮彫りされた。サーンチー第2塔欄楯(前2世紀末)、バールフト塔の塔門と欄楯(前1世紀初頭)、ボードガヤー大精舎(しょうじゃ)の欄楯(前1世紀後半)などを経て、サーンチー第1塔塔門(1世紀初頭)に至って頂点に達した。石窟(せっくつ)寺院の造営も盛行し、西インドのデカン高原北端に前2~後2世紀に多数の仏教石窟が開かれた。奥にストゥーパを安置する祠堂(しどう)窟と僧院窟とから窟院が形成され、バージャー、アジャンタ、カールラーなどのものが名高い。これら前期石窟は全般に簡素で、木造建築の形式をかなり残し、浮彫りや絵画による装飾も少ない。ただし、アジャンタ第9、第10窟の古画は、紀元前後にさかのぼる仏教絵画最古の遺品である。ところで古代初期の仏教美術のもっとも目だった特徴は、いかなる場合にも仏陀の姿を表現しなかった点にあり、仏陀を主人公とする仏伝図浮彫りにおいても法輪、台座、足跡(そくせき)、傘蓋(さんがい)、菩提樹(ぼだいじゅ)などによって仏陀の存在を示唆するにすぎない。

[肥塚 隆]

古代中期

1世紀中葉から4世紀前半までのこの時期は、仏像の出現に特色づけられる。パキスタンの北部、現在のペシャワルを中心とするガンダーラ地方は、前2世紀からインド・ギリシア人、サカ人、パルティア人、クシャーナ(クシャン)人など異民族の相次ぐ支配を受け、外来文化の影響が顕著な地域であった。当地の造形活動は、ギリシア系文物を愛好したパルティア人により1世紀中葉に始まるが、それは非仏教的な主題を扱ったものであった。ついでクシャン人は、中央アジア南部からインド亜大陸北西部を領有する大帝国を築き、直接ローマ世界と交渉する道も開かれ、インドの仏教思想と西方の造形技法とが融合してガンダーラの仏教美術が生まれた。仏陀の姿は仏伝図浮彫りにごく自然に出現し、それは1世紀末のことと考えられるが、異説もある。そして2世紀中葉のカニシカ王のころには単独の仏像もつくられるようになった。この石彫中心の美術は、2世紀後半に最盛期を迎え、3世紀中葉には衰えるが、4~5世紀にはストゥッコ彫刻が展開した。その遺跡は、タフティ・バヒーをはじめとしてガンダーラ地方では枚挙にいとまなく、その北のスワート地方、東のタキシラなどパンジャーブ地方の一部、ストゥッコ彫刻で有名なハッダなどのアフガニスタンの一部にも及ぶ。

 要するにガンダーラ美術は、インド文化とヘレニズム・ローマ文化およびイラン文化など東西文化の交流が刺激となって展開したもので、具体的、現実的な表現を好み、仏陀の事跡をこと細かに描く多数の仏伝図浮彫りを制作した。また人物の容貌(ようぼう)や服装は西方風であり、よく整っている。一方、それまで仏陀の姿を表現することのなかったインド内部でも、同じクシャーナ朝クシャン朝)の支配下にあった北西部のマトゥラで2世紀初頭には仏像を制作するようになった。しかしその作風は西方の影響の濃いガンダーラのそれとは異なり、肉体の力を強調した野性的なあるいは官能的なインド古来の伝統に基づくものであり、この力量感あふれる彫刻は、以後のインド各地の工房に多大の影響を与えた。また当地ではジャイナ教美術も栄え、多数の祖師像を残していて、その像容は仏陀像と大差ない。仏教、ジャイナ教を問わずつくられた豊穣(ほうじょう)・多産の女神ヤクシーは、豊かな肉体を誇示した女性像で、マトゥラの彫刻に変化と潤いを与えている。またイラン風の服装をしたクシャン朝の諸王や戦士の像も重要である。

 このころ南インドではサータバーハナ朝が優勢で、1~3世紀にアマラバティなどでしなやかで変化に富む群像表現に秀でた仏教彫刻が生み出された。その伝統は次のイクシュバーク朝ナーガールジュナコンダ(3世紀中葉から4世紀中葉)に継承された。

[肥塚 隆]

古代末期

グプタ朝の興起(320)からハルシャ王一代の帝国の崩壊(647)までの300年余りは、インド古典文化が高揚し、造形美術の面でも古典様式の完成をみた時期である。仏教美術では仏像制作に重点が置かれ、マトゥラとサールナートの二大工房において、高い精神性を備えた理想美の典型ともいうべき仏像が成立した。3世紀後半に形式化したマトゥラ彫刻も、5世紀初頭にはふたたび生気を取り戻し、洗練され円熟味を増した。その目はなかば閉じて落ち着きと威厳を備え、両肩を覆ってまとった衣は体に密着し、流麗な陽刻線によって全面にひだを表した。5世紀後半にはサールナートでもにわかに造像が盛んとなり、体に密着した衣にはひだをまったく表さず、若々しく温和な仏像を生み出した。西インドでは5世紀になると石窟の造営が再開され、8世紀ごろまでにアジャンタ、オーランガーバードアウランガーバード)、カーンヘリーなどで前期に続いて造営されたほか、新しくバーグやエローラでも開掘された。この後期には僧院窟が仏堂を備えるなど目覚ましい発達を遂げ、内部は浮彫りのみならず壁画でも華やかに荘厳された。なかでもアジャンタ第1、第2窟(5世紀末~6世紀前半)、第16、第17窟(5世紀後半)には、優れた壁画が豊富に残っている。それらはテンペラ画の技法になり、色数は少ないが鮮やかな色の対比が美しく、熟達した筆致によって壁面や天井を説話画や動植物文様によって華麗に飾っている。

 またこの時代にヒンドゥー教の造形活動が始まり、次の中世前期における盛況を準備した。この黎明(れいめい)期の代表的な遺構は、ウダヤギリ石窟(5世紀初頭)とデーオーガルのビシュヌ寺院(6世紀前半)であり、マトゥラからも多くの優品が出土している。さらにムンバイ(ボンベイ)湾内のエレファンタ島の大規模な石窟と雄偉な彫刻群は、次代の南インドにおけるヒンドゥー教美術の先駆となった。

[肥塚 隆]

中世前期

7世紀以降仏教はしだいに衰微し、13世紀までの中世前期はヒンドゥー教美術の全盛期である。仏教美術は、8~12世紀に東インドを支配したパーラ朝の庇護(ひご)を受けて、ナーランダー、ボードガヤー、ラトナギリなどで最後の華を咲かせた。彫刻は繊細精緻(せいち)となったものの、作風は形式化の傾向をたどった。また密教の隆盛に伴い、尊像の種類が増加し、像容が多様化した。仏教はイスラム教に圧迫されて12世紀の末ごろに衰退するが、パーラ様式の影響はネパール、チベット、東南アジアに及んだ。

 仏教にかわって優勢となったヒンドゥー教は、まず南インドで6~8世紀に繁栄を競ったチャールキヤ、パッラバ、パーンディヤの3王朝のもとで、活発な造形活動を行った。チャールキヤ朝の彫刻は柔らかい肉づきでありながら充実した肢体の表現を特色とし、バーダーミ、アイホーレ、パッタダカルなどに石窟や石積寺院を残している。パッラバ朝の彫刻は、柔らかな肢体の動きある群像表現に優れ、カンチプラムマハーバリプラムに代表的な遺構がある。757年チャールキヤ朝を倒して独立したラーシュトラクータ朝は、エローラに大規模なヒンドゥー教石窟を掘り、圧倒的な迫力をもつ男神、豊満艶麗(えんれい)な女神など多数の浮彫りを残している。

 北インドでは諸王朝の分立が続き、チャンデーラ朝のカジュラーホ(9~13世紀)、オリッサ(現、オディシャ)地方ではブバネシュワル(7~13世紀)、プリ(11~12世紀)、コナーラク(13世紀)などに、北インド独得の本殿が高くそびえる石積寺院が造営された。一方、南インドのヒンドゥー教寺院の本殿はピラミッド形で丈は高くなく、のちには楼門の高大さを競うようになる。イスラム教の影響が北インドに比べて弱かったこともあってその活動は長く続き、チョーラ朝(9~13世紀)、ホイサラ朝(12~14世紀)、ビジャヤナガル王国(14~16世紀)、ナーヤカ朝(17~18世紀)などによって、タンジャブール、チダムバラム、シュリーランガム、マドゥライその他の寺院が建立された。

[肥塚 隆]

中世後期

インドにイスラム文化が影響を及ぼし始めるのは8世紀初頭であるが、イスラムの造形活動が本格化するのは12世紀末以降である。イスラム教は偶像を否定したので、イスラム美術は建築が主体であり、モスク(マスジッド)と墓廟(ぼびょう)が中心であった。当初は伝統的なインド建築の影響が強く、デリーのクトゥブ・ミナール(1200ごろ)が代表的遺構である。16世紀に成立したムガル帝国では、ペルシアの技術を取り入れ、大きなドームとアーチによる均斉ある統一を特徴とするインド・イスラム建築が完成した。デリーのフマーユーン廟(1565ごろ)、ファテプル・シークリーの宮殿(1569~1585)、アグラのタージ・マハル廟(1632~1643)などが著名である。16~19世紀には細密画が盛んに制作された。ムガル絵画とラージプート絵画の2派があり、前者はムガルの宮廷画院においてペルシア細密画を継承するとともにヨーロッパ絵画の技法も採用して発達し、主として歴史記録や人物および動植物を扱った風俗画が多い。後者は武人階級であるラージプート諸王国で盛んに描かれ、ヒンドゥー教神話を主題としながらも叙情的で庶民的性格が強い。

[肥塚 隆]

近現代

18世紀後半にイギリスのインド支配が確立すると、インドの経済的風土は徹底的に破壊され、伝統文化は衰退した。詩聖ラビンドラナート・タゴールの従兄弟の息子であるアバニンドラナート・タゴールAbanindranath Tagore(1871―1951)は伝統文化への復帰を叫んで芸術運動をおこし、ベンガル派とよばれる一群の芸術家、すなわちジャミニ・ローイJamini Roy(1887―1972)やアムリター・シェールギルAmrita Shergil(1913―1941)などの画家、ラームキンカル・バイジュRamkinkar Baij(1906/1910―1980)などの彫刻家が活躍した。さらに1947年のインドとパキスタンの分離独立前後以降の著名な作家としては、インドでは画家のマクブール・フィダー・フセインMaqbool Fida Husain(1915―2011)、フランシス・ニュートン・スーザFrancis Newton Souza(1924―2002)、サイヤド・ハイダル・ラザーSayed Haidar Raza(1922―2016)、K・G・ラーマーヌジャンK. G. Ramanujam(1941―1973)、彫刻家のアニシュ・カプールAnishi Kapoor(1954― )、パキスタンでは画家のアブドゥル・ラハマーン・チヤグターイーAbdur Rehman Chughtai(1894/1897―1975)、サーディキーン・ナクビSadequain Naqvi(1930―1987)、アハマド・パルベーズAhmed Parvez(1926―1979)、彫刻家のシャーヒド・サジャードShahid Sajjad(1936―2014)、バングラデシュでは画家のザイヌル・アブディーンZainul Abedin(1914―1976)その他をあげることができる。

[肥塚 隆]

『高田修・上野照夫著『インド美術』(1965・日本経済新聞社)』『町田甲一編『東洋の美術Ⅱ』(1977・旺文社)』『佐和隆研編『インドの美術』(1978・美術出版社)』『肥塚隆編『朝日百科世界の美術83、84 インド美術Ⅰ、Ⅱ』(ともに1979・朝日新聞社)』『宮治昭著『仏教美術のイコノロジー――インドから日本まで』(1999・吉川弘文館)』『上野照夫著『インドの美術』(1985・中央公論美術出版)』『伊東照司著『インド仏教美術入門』(1986・雄山閣)』『山本智教著『インド美術史大観』全2冊(1990・毎日新聞社)』『岩波書店編・刊『仏教美術――印度彫刻』(1990)』『奈良康明・NHK取材班編『NHK大英博物館4 インド・仏教美術の開花』(1991・日本放送出版協会)』『ジョージ・ミッチェル著、神谷武夫訳『ヒンドゥ教の建築――ヒンドゥ寺院の意味と形態』(1993・鹿島出版会)』『グレンバラ・ジャパン編・刊『現代インド美術 グレンバラ美術館コレクション』(1993・星雲社)』『肥塚隆・宮治昭編『世界美術大全集 東洋編13、14 インド1、2』(1998、2000・小学館)』『福田和彦著『図説エロスの神々――インド・ネパールの太陽神殿とタントラ美術』(2000・河出書房新社)』『立川武蔵文・大村次郷写真『アジャンタとエローラ――インドデカン高原と石窟寺院と壁画』(2000・集英社)』『高田修・大村次郷著『アジャンタ壁画』(2000・NHK出版)』『ヴィディヤ・デヘージア著、宮治昭・平岡三保子訳『岩波世界の美術 インド美術』(2002・岩波書店)』『宮治昭著『インド美術史』(2009・吉川弘文館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド美術」の意味・わかりやすい解説

インド美術
インドびじゅつ
Indian art

インド美術は外来民族の異文化を吸収しながらも強い民族主義的,保守的伝統に貫かれている。そのほとんどは仏教,ヒンドゥー教,ジャイナ教およびイスラム教に属する宗教美術である。外来的色彩の強いイスラム美術を除き,インドの尊像は人間の姿を用いて表現された点で西洋古典美術とつながりがあるが,その造形,表現は大きく異なる。ギリシアでは理想的な完全な人体を通して神を表現しようとしたが,インドでは生身のあたたかさ,生命の息づかいを肉体を通して表わそうとした。インド美術は具体的な対象把握を示しながらも,絶えず象徴的,宗教的価値の表現とかかわっている点に特徴がある。歴史的には,本格的な美術はマウリヤ朝時代 (前 322~185) に始り,アショーカ王石柱上の獣像,石彫神像などが造られた。シュンガ朝時代 (前 185~72) には,仏塔の建立とそれを荘厳する仏伝を表わす浮彫など,仏教美術の進展がみられる。クシャン朝時代 (50頃~241) になるとガンダーラとマトゥラでそれぞれ仏像が造られはじめ,仏教美術は飛躍的な展開をとげる。グプタ朝時代 (320~600頃) は仏教美術の完成期であると同時に,ヒンドゥー教美術の台頭期でもあり,美術史上重要である。アジャンタ石窟をはじめ多くの石窟寺院はそのすぐれた作品の宝庫である。これに続く中世のヒンドゥー教諸王朝のもとでは,エローラ,エレファンタなどに壮大なヒンドゥー教寺院が造られ,最もインド的な世界を示す。 13世紀以後はイスラム建築に代表される。また 16世紀頃からミニアチュールが盛んになり,ことにムガル絵画ラージプート絵画が名高い。

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