仏教はインドの釈迦によって紀元前5世紀に開かれ,一は南海をへて東南アジアに伝わり,他は中央アジアから中国,朝鮮をへて日本に達する。長い歳月をかけてアジアの広大な地域に伝播しただけに,そこに展開する仏教美術は多彩をきわめ,その変化の諸相に幻惑されるほどである。仏教は本来釈迦を起点として展開するものだけに,それ自体有機的な発展をとげたものである。古来〈仏〉〈法〉〈僧〉の三宝(さんぼう)は仏教の基本大系であり,時・空間を超えた広がりをもつ仏教美術もまた,これを軸として考えると,統一的にとらえることができるだろう。
釈迦の求め得たものは〈法〉であり,法こそは仏教の中核をなすものである。法は釈迦の瞑想により得た思弁的なものであるため,抽象的な文字に託され,統一的なテキストである経を求めて結集(けつじゆう)が繰り返された。経の内容も,教団の拡大と大乗経典の発達にともない,経,律,論に分かれ,〈大蔵経〉として集大成された。経をめぐる美術には,例えば僧侶の修学のための経典を収める寺院の経蔵がある。また,経がひとたび教団から大衆に受け入れられるようになると,その内容も経変として壁画,屛風,絵巻などに描かれるようになる。また経典自体も,写経が繰り返される中でさまざまな材質を用い,贅をつくした装飾経も現れ,経塚がつくられ,経筒や経箱などの優れた経塚遺物を生む。
〈仏〉は悟りを開いた人を意味し,仏教は本来〈法〉を中心とするため,造形的な仏教美術とは無縁であるべきであり,初期にはそうであった。しかし,釈迦が滅するや,大衆は〈法〉のみでは満足せず,しだいに〈仏〉を主体とする造形を生み出していった。その一つは早くからみられ,荼毘(だび)に付された釈迦の遺骨(舎利)を人々は求め,舎利は分配され,これを中心に塔が建立された。舎利信仰の隆盛にともない,塔は石造化し,さらに塔門や柵には浮彫が施され,荘厳化が進む。しかし釈迦滅後5~6世紀の長期間,釈迦(仏)の造像は絶対にみられず,上記の装飾に仏は塔,樹木などのシンボルで表現された。しかし,2世紀ころ,ガンダーラにおける仏像出現によって,このタブーは破られた。さらに大乗仏教が興ると,〈法〉は生身の釈迦を超えて普遍化し,〈法〉を求めて精進すれば衆生も如来たりうるという菩薩道が重視される。それにともない各種の如来や菩薩が出現し,造像化され,これを安置する仏殿がつくられた。仏(釈迦)像の出現以後,舎利信仰による塔の造立と,法を擬人化し,より具象的に訴える諸仏像の造像とは,仏教美術の二大潮流として,後世に至るまで貫流する。一方,須弥山(しゆみせん)を中心に四大洲がめぐり,日月星辰がめぐる古来の仏教宇宙観は,大乗仏教による法の普遍化が進行するとともに,如来の説法所が,インドの霊鷲山(りようじゆせん)から須弥山上の三十三天(釈迦),さらに兜率(とそつ)天(弥勒(みろく)),他化自在天(盧舎那(るしやな))へと上昇し,ついには最高位の天である色究竟天(大日)にまで達する。仏国土も須弥山圏を超越し,東(阿閦(あしゆく),薬師),西(阿弥陀),南・北の十万億土の浄土へと拡大し,浄土教の発達により,人間界以下の地中の地獄や餓鬼にまで関心が深まり,仏教世界は無限に拡張する。また密教世界では,雑密から純密への過程で仏像の限界を超えて,多くの異教神たる天部や明王部の諸神を包摂し,仏像の質的変化をもたらすに至る。この密教特有の傾向は,日本に入ると本地垂迹(ほんじすいじやく)説を生み,各種の垂迹美術が出現する。
これら法と仏をめぐる仏教美術も,両者の媒体をなす〈僧〉の活動をまってはじめて具現しうるのである。それゆえ仏教では,祖々仏々として法の伝授は特に重視された。釈迦-十大弟子-各宗の祖師-弟子への系譜を,禅宗や密教で血脈(けちみやく)と称するゆえんもここにある。この系列の美術に羅漢像や祖師像などの肖像や,僧侶自身の墨跡がある。また僧によって仏事を営むための仏具,供養具,梵音具,芸能具も多岐にわたり,僧侶の生活用具も重視された。インドでは僧の生活する僧院と,礼拝供養の対象である仏塔とは別々に発生し,やがて両者は結びついて伽藍(がらん)となり,前者は僧房,講堂,経蔵,鐘楼,後者は塔,金堂となって寺院を形成する。以上,法,仏,僧の仏教の基本大系と仏教美術との関連をたどったが,以下では〈仏〉〈法〉〈僧〉について時代的,地域的広がりの中に主要な遺物を位置づけながら概観することとする。
釈迦の在世時においては,後世の寺院のごときものはなく,雨期を過ごす僧団の収容施設や,小洞窟があったにすぎず,当時の遺構も存しない。釈迦が入滅するや,信者たちにとって最も身近な崇拝物は,釈迦の遺骨(舎利)であったため,舎利を分配し,これを納めるストゥーパ(塔)を建てた。マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を保護し,釈迦にゆかりの深い地に,記念のために塔や石柱を建立した。この時代の仏塔は木造建築を主としたため,塔の遺構は存しないが,アショーカ王石柱が遺り,その石彫には西方工人の影響がみられる。石塔遺構としては,シュンガ朝のバールフットやサーンチー第2塔,アーンドラ朝のサーンチー第1塔などが現存する。これらの塔は,舎利容器の上に半球上の塚を築き,表面を石で覆い,頂上の平頭上に傘蓋を立てる。塔周囲の四門や欄楯(らんじゆん)(玉垣)には仏伝図や本生図の精細な浮彫が施されている。クシャーナ朝のガンダーラの塔になると,方形の基壇上に円筒形の鼓胴部を幾壇にも高く積み,頂上に小さな覆鉢を置き,その平頭上に立てた傘蓋は底部が大きく,層を重ねるごとに先細りとなり,全体に垂直的な上昇感のある塔に変化する。方形基壇や鼓胴部には,仏伝,仏像,装飾文の浮彫をめぐらすものがある。南インドのアマラーバティーなどにも塔は建てられ,サーンチー風を継承するが,セイロン(スリランカ),ビルマ(ミャンマー),タイ,インドネシアなど東南アジアに伝わった塔には,基壇が雛段式に積み上げられるもの(ボロブドゥールなど)がみられる。これに対してクシャーナ朝の垂直に重層化する方式の仏塔は,西域をへて中国に伝来する。
中国に入ったストゥーパは,中国古来の楼閣建築と結合して層塔となり,最上部に小型の覆鉢が載せられ,その上に傘蓋が高く延びて相輪となる。層塔ははじめ浮屠祠(ふとし)と呼ばれ,漠然と仏堂とみなされたため,初重に仏像が置かれたが,4,5世紀に舎利信仰が高まり,仏堂と分離し,層塔ははじめて塔として独立し,これより堂塔の具備する仏教寺院に発達した。初期の層塔は木造建築のため遺構は失われたが,雲岡や敦煌の石窟内の塔柱や壁面に,古い形態の塔が彫り出されている。層塔は三重,五重,七重塔のほか九重塔も建てられた。これが朝鮮をへて日本に流伝し,法隆寺五重塔や薬師寺三重塔などの優れた塔を生んだ。インドのストゥーパの原型は相輪に認められる。舎利は塔の心礎に穿たれた舎利孔に埋納されたが,後には層塔上や心柱内や相輪内に安置されるようになる。また塔内には,仏伝などにもとづいた塑造の群像や壁画が描かれた。塔内壁画は四仏(薬師,釈迦,阿弥陀,弥勒)など旧教系のものが多いが,醍醐寺五重塔内には密教の金・胎両部の曼荼羅が描かれている。
インドにおいては舎利崇拝にともなう仏塔と,僧侶の生活する僧院とは,元来別個の発生と展開をなすものであった。当初のものは木造建築であるため遺存しないが,石窟としては前2世紀ころに仏塔を祀る祠堂であるチャイティヤや,僧侶の止住する僧院もつくられ,両者が結びつくことによって寺院が形成された。野外遺跡は前1世紀後期からみられ,2~3世紀以後のガンダーラ地方に多い。塔と僧院は厳然と区分されながらも,両者はたがいに不可欠なものとして伽藍を形成する。インドの石窟寺院はトゥルファン,敦煌など,シルクロードぞいに西域から中国へと伝えられ,雲岡,竜門,鞏県(きようけん)など多くの石窟が開削された。都市における造寺,造仏も《洛陽伽藍記》などに記されるように盛大をきわめた。日本における飛鳥時代の寺院は,塔を中心に中門,金堂,講堂が一直線につらなり,これを回廊が囲む伽藍配置(四天王寺式)であり,これは高句麗,百済,新羅の寺院址に類例がある。一方,日本最古の飛鳥寺は,塔の周囲に三面金堂をめぐらす特殊なものであるが,これも高句麗の清岩里廃寺に遺例があり,朝鮮との緊密な関係がうかがわれる。この伽藍配置で注目されることは,回廊で囲まれた中門,塔,金堂の一画とその後方の講堂とが分離していることで,インド以来の仏塔と僧院との厳然たる区分が,そのまま飛鳥寺の伽藍配置に継承されている点である。最近の再発掘によって,法隆寺西院伽藍も飛鳥寺式であることが判明した。白鳳から奈良時代の寺院,法隆寺,薬師寺,東大寺の伽藍配置の変化をみると,インド以来の仏塔を主とする配置から,塔と金堂(仏殿)を並立する形式をへて,塔を二分し,さらに回廊外に建立するという舎利(塔)中心から,金堂を主とする,仏像重視への転換が明瞭にうかがわれる。
→伽藍配置 →寺院建築
前述のように釈迦の滅後しばらくは,釈迦像は象徴的に示唆されているにすぎなかった。1世紀にクシャーナ族が北インドに侵入し,版図を拡大するにつれて南下し,シルクロードを占めるようになると,西アジアやギリシア系の人々が流入し,西方との交流が活発化した。その異文化交流の影響をうけて,2世紀ころガンダーラで仏像が出現した。常人と異なる肉髻(にくけい)相,白毫(びやくごう)相,縵網(まんもう)相などをもち,顔貌は眼の彫りが深く,鼻筋が高く通り,僧衣を通肩にまとい,衣褶を深く刻んだ立像が多く,西方ギリシア・ローマの影響をうけている。一方マトゥラーにおいても,ほぼ同じころ仏像が造られた。これは,青灰色の堅緻な片岩に彫られたガンダーラ仏に対して,黄斑文の赤色砂岩に薄く彫られた温かい感触の像で,頂上に巻髪を置き,眼が大きく唇の厚いインド的な顔貌を示し,薄い着衣は偏袒右肩(へんたんうけん)で座像が多く,ガンダーラ像とは様式的にも著しい対照を示している。仏像のガンダーラ起源説に対して,マトゥラー独自の起源説を説くものもある。また南方のアマラーバティーの仏像は,頭部が螺髪(らほつ)となり,肢体も柔軟で南インドの特性がよく表れている。大乗仏教が興起すると,出家,俗人を問わず,衆生済度の利他行の実践が強調され,抽象的な仏の〈法〉のみならず,具象的なさまざまな仏の存在が求められるようになり,釈迦信仰のほかに,過去にも如来ありとする過去仏思想や,現在兜率天に修行中の弥勒菩薩が,56億7千万年後にこの世に出現して,衆生を済度するという弥勒思想も生まれる。しかし未来は遠すぎるとして,仏国土に行けば仏に会えて往生できるという来世仏(他土仏)の考えが起こり,西方の無量寿仏(阿弥陀仏),東方の阿閦仏や薬師仏の浄土が想定された。これにともない観音,文殊,普賢などの菩薩信仰も高まった。さらに如来観が宇宙的に拡大して,華厳教の盧舎那仏(華厳経美術)や,密教の大日如来が出現し,それとともに多種類の変化菩薩や天部も仏教に摂取され,新たに明王も出現する。このようにインドの仏像は,思想的・歴史的に拡大しながら中央アジアをへて中国に流伝した。
中国の仏像は4世紀ころから遺品があり,はじめは小金銅仏にすぎなかったが,六朝時代になると大石窟が開削され,北魏の雲岡,竜門,鞏県,北魏末より西魏の麦積山,北斉の天竜山,響堂山など,種々な様式の仏像彫刻が大量に造像された(石窟寺院)。仏像は高句麗,百済,新羅の3国をへて日本に伝来し,飛鳥寺や法隆寺などの主要な大寺では,丈六の金銅像や小金銅仏が盛んに造られた。法隆寺釈迦三尊像などの飛鳥仏には,中国南北朝様式の影響がみられるが,白鳳仏になると,南北朝末や隋様式が加味され,薬師寺聖観音像や薬師三尊像には,初唐様式がうかがわれる。この時代になると像の種類も増加し,釈迦のほか薬師,阿弥陀,弥勒の如来像や,観音,弥勒半跏の菩薩像も造られた。中国の唐代では竜門や天童山石窟も造像が進み,高宗による奉先寺石窟には,竜門最大の盧舎那仏が刻まれ,武后の洛陽白司馬坂に盧舎那仏とみなされる大銅仏(現存せず)が造立された。日本の奈良時代の仏像彫刻は,東大寺,興福寺,大安寺,唐招提寺などに遺存するにすぎないが,唐朝盛期の豊麗で写実的な古典美をよく示している。これら白鳳から天平時代(奈良時代)の彫刻の素材・技法は,金銅仏,押出(おしだし)仏,塑造,乾漆,塼造(せんぞう)などが主で,木彫は少ない。奈良時代にはすでに古密教(雑密(ぞうみつ))が伝来しており,十一面観音や千手観音,不空羂索(ふくうけんじやく)観音などが存するが,平安時代には最澄,空海によって大日如来を中心とする密教(純密)が請来され,東寺講堂像のような金剛界諸像や五大明王などが多量に造られる。奈良時代末に唐招提寺の木彫群が出現して以降,平安初期には神護寺の薬師如来像にみるような,森厳な充実感のある一木彫像が隆盛をみた。10世紀になると仁和寺阿弥陀三尊像のような和様彫刻が造られ,11世紀には寄木造が発達し,平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像のようなすぐれた造像が行われた。この仏師定朝による様式は一世を風靡し,全国的に波及した。鎌倉時代になると,南都焼亡後の東大寺,興福寺の復興造営にともない,天平古典美の復古と宋風の摂取とにより,写実的で質実剛健の気風のある鎌倉彫刻が出現した。両大寺の復興には膨大な造像を必要としたため,諸派の仏師が動員された。なかでも慶派のめざましい活動が注目される。
→仏像
インドのアジャンター,アフガニスタンのバーミヤーン,中央アジアのキジル,ミーラーン,トゥルファン,中国の敦煌などに古代の仏教絵画が遺るが,そのほとんどが壁画で,土壁,板壁に描かれる。その主題も仏伝,本生譚,譬喩(ひゆ)説法など,インドの古い起源を有する釈迦中心の仏教説話である。大乗仏教が興ると,従来の小乗仏教説話画(降魔(ごうま),涅槃(ねはん),牢度叉(ろうどしや)変相など)のほかに,大乗経典にもとづいた経変(維摩,法華,華厳変相など)が,中国の敦煌窟などに,隋代ころから盛んに制作される。これら変相図は難解なため絵解きがなされ,絵解文(変文)から発達した俗講文学も流行する。文献によれば,南北朝から唐代にかけて,洛陽,長安の寺院には多くの壁画が描かれていたようで,この壁画隆盛の流れが日本に伝来して,法隆寺金堂壁画の各種浄土変相図に結実した。土壁の壁画は,中央アジアなどの乾燥地ではおおいに発達し,保存もよいが,日本では発達せず,もっぱら板壁が用いられた。板壁絵の遺品としては8世紀の栄山寺八角堂が最も古く,平安時代のものでは伝帝釈天曼荼羅(室生寺)をはじめ醍醐寺五重塔,平等院鳳凰堂,鎌倉時代では海住山寺五重塔,称名寺金堂などが知られる。また,法隆寺の《玉虫厨子(ずし)》橘夫人念持仏厨子のような厨子絵も古くからつくられた。厨子絵の遺品は平安時代には乏しく,鎌倉時代は箱形厨子となり,外周は黒漆,内部にのみ仏画が描かれる。浄瑠璃寺旧蔵の吉祥天厨子(東京芸術大学)や弥勒菩薩厨子(興福寺)などがその例で,内部に舎利や両界曼荼羅などを納める携帯用の小型厨子も流行した。
奈良時代には壁画のほかに補陀落(ふだらく)山,薬師浄土変相など大画面の額絵もあったことが記録類にみられるが,遺品はわずかに吉祥天像(薬師寺)のみである。また大般若・華厳変相の大繡帳の掛幅も《大安寺資財帳》にみえる(繡仏)。経変の奈良時代の遺品としては《法華経》による《釈迦霊鷲山説法図(法華堂根本曼荼羅)》(ボストン美術館),華厳変相の一面をうかがわせる東大寺大仏蓮弁や〈二月堂光背〉の線刻画があり,平安末から鎌倉時代には,〈華厳五十五所絵〉などの経絵の絵巻や掛幅がつくられた。経変の中でも,中国の隋から唐にかけて隆盛した浄土教にもとづいて描かれた絵画を浄土変相という。これが日本に及び法隆寺金堂6号壁の〈阿弥陀浄土図〉(7世紀末)や〈当麻曼荼羅〉(当麻寺,763)となった。前者は〈無量寿経〉により,後者は〈観無量寿経〉にもとづく。平安時代になると,〈当麻曼荼羅〉下縁に描かれた九品来迎図が独立し,それらを周壁にめぐらした平等院鳳凰堂のような浄土堂が造られる。同期から鎌倉期にかけて浄土信仰の高まりの中で,来迎図として〈阿弥陀聖衆来迎図〉〈早来迎図〉〈山越阿弥陀図〉などが次々に生み出され地獄,餓鬼などを対象とする六道絵も各種つくられた。
→浄土教美術
空海,最澄によって請来された密教は,円仁,円珍などの入唐僧により請来を重ね,東密(真言密教),台密(天台密教)はともに栄え,曼荼羅と尊像画からなる密教画も隆盛した。曼荼羅のうち両界曼荼羅では,〈高雄曼荼羅〉(神護寺)が最も古く,極彩色の〈伝真言院曼荼羅〉(東寺)をはじめ,空海請来系の現図曼荼羅(東密系)が中心であるが,金剛界八十一尊曼荼羅(台密系)もみられる。別尊曼荼羅は修法の本尊として,特定の尊を中心に構成した曼荼羅で,主尊に如来,菩薩,明王天を配するなど,その種類は多い。また大日如来や多面多臂の菩薩像をはじめ,忿怒(ふんぬ)の明王像や十二天像など密教特有の尊像画もこの時期に多数制作された。また密教の経軌が複雑で難解なため,師資相承のうえから白描図像が描かれ,それらを集成した《図像抄》《別尊雑記》《覚禅抄》などの図像集もつくられた(仏教図像)。
→密教美術
一方,顕教画にも涅槃図,釈迦・薬師如来像,菩薩像などの優品が多い。中世以降興隆する禅宗では,釈迦,羅漢,達磨像や,水墨画系の禅画や頂相(ちんぞう)が制作された(禅宗美術)。このほか本地垂迹説により寺社の景観に本地仏や神像を表す垂迹曼荼羅も中世には多数制作され,春日,熊野,日吉山,石清水をはじめ,笠置,生駒,富士曼荼羅など遺っている。
仏画の形式は,壁画や大画面の掛幅からしだいに小画面の掛幅,巻子が行われるようになる。また,仏教が大衆化するにつれて仏画の量産化が要求され,印仏や摺仏(すりぼとけ)などの仏教版画の流行をみる。これらを様式的にみると,中央アジアのキジルやミーラーンにおいては西方的要素が濃いが,トゥルファン以東では,逆に中国絵画の影響がみられる。法隆寺壁画には初唐様式がみられ,奈良時代の大仏蓮弁線刻画や《当麻曼荼羅》の豊満な量感,鉄線描や隈取の陰影法も唐代の影響である。平安初期においても神護寺の〈両界曼荼羅〉や西大寺の《十二天像》にはなお盛唐様式がのこる。平安中期に至って和風化が進み,平安後期になると抑揚のない穏やかな描線に,優雅な彩色が施され,切金(きりかね)が施されるなど装飾豊かな日本的情趣にみちた様式が醸成する。また鎌倉時代には,宅磨派のような絵仏師が,淡色の色彩に抑揚のある固い描線を駆使する宋画を巧みにとりいれた。
釈迦の滅後に弟子たちが集まり,釈迦が説法した教えを収集し,確認し合うことによって,仏教の教法が確立した。これを第1結集(けつじゆう)という。また僧団用の集団規則である戒律も整備され,入滅後100年ころまでに経・律二蔵が成立した。第2,第3結集をへて,2世紀に至ってカニシカ王の外護のもとに有部論集が集成(第4結集)され,論蔵も整備される。これら経蔵,律蔵,論蔵を総称して三蔵という。仏教経典は,小乗系の南伝仏教と大乗系の北伝仏教によって伝播する。中国,朝鮮,日本に影響を及ぼしたのは北伝仏教である。インドの経典は,古く紙の代りにターラ(多羅)などの樹葉を短冊形に切りそろえて,竹筆や鉄筆で経文を書き,上下に板をあて,中に紐を通して結ぶ貝葉(ばいよう)経といわれるものであり,日本にも若干伝存している。中国では巻子装の紙本の書写経が多く,この形式が日本に伝わる。
紙に書いた日本最古の遺品に,聖徳太子筆と伝える《法華義疏》(宮内庁)がある。紀年銘のあるものとしては《金剛場陀羅尼経》(686)が最も古い。奈良時代には入唐僧によって,顕教や雑密経典まで漢訳経典のほとんどが請来されている。写経司が整備され,聖武天皇,光明皇后,長屋王らの願経が書写されその一部が現存する。《一切経(大蔵経)》のほか《金光明最勝王経》《華厳経》《般若経》《涅槃経》《法華経》などが重視された。書写はもっぱら墨書であるが,紺紙や紫紙に金・銀泥で書写する紺紙金泥経も行われた。平安後期には金・銀泥のほかに金銀交書(まぜがき)や,色がわりの料紙に金銀や五彩で模様を描き切箔(きりはく)や砂子(すなご)をまき,見返しには華麗な絵画を描き,表紙,題箋,経軸にいたるまで,金銅や宝石など技巧の限りをつくした《平家納経》《久能寺経》《扇面法華経冊子》などの装飾経が流行した。鎌倉時代には宋版の影響をうけ,木版による冊子本の経典が量産化され,僧侶の読誦や研究には版経が用いられ,写経は功徳追善のために行われるにすぎなくなる。それらの書風は,《法華義疏》の扁平な書体に隋風がうかがわれ,《金剛場陀羅尼経》は初唐風,聖武天皇・光明皇后の願経には,謹直な楷書のなかにのびのびとした盛唐の様式がみられる。平安写経は,和様化した丸味のある温雅な書風となり,鎌倉時代には和様を継承しながらも強さが増し,類型化されてくる。また写経を納める経帙,経箱,唐櫃などには,木竹工芸,蒔絵(まきえ),金銅細工など工芸諸技法が駆使された優品が多い。このほか平安後期以降経塚が造られるようになると,弥勒出世にそなえて永久保存をはかった銅板経(福岡国玉神社)や瓦経(伊勢小町塚出土)もつくられ,尊像や曼荼羅がこれらに陰刻された。
僧(サンガsaṃgha)は,はじめ比丘たちが一処に集まり修行する集団僧の意味に用いられたが,やがて仏門に入り仏道を伝える僧侶個人をいうようになる。仏像や経典のほかに,これを相伝布教する僧侶は,仏,法と並んで重んぜられる。仏弟子や高僧は各宗派の信仰対象となり,各種の肖像や祖師像が造られる。釈迦の高弟十大弟子像は,興福寺,大報恩寺の木彫像が知られる。羅漢(阿羅漢)は仏教の修行の最高位に達した者をいうが,大乗興起後は小乗の聖者をいい,〈十六羅漢図〉(清凉寺,東京国立博物館など)の遺品も多い。奈良時代の高僧像には鑑真,行信などがあり,乾漆造が多く,平安時代には真言八祖像(東寺,神護寺など)や天台祖師像(一乗寺)などの密教祖師像や,法相宗の慈恩大師像(薬師寺,興福寺など)などの画像や良弁の彫像などがある。また聖徳太子の肖像や絵伝(法隆寺献納宝物)も描かれ,鎌倉時代における太子信仰の高まりとともに,掛幅や絵巻の太子絵伝をはじめ,南無太子,童形太子など各種の太子像が造られた。鎌倉仏像の法然,親鸞,明恵,叡尊,日蓮,栄西,道元などの肖像も多く制作され,特に禅宗は師資相承を重んずるため,師の肖像である頂相(ちんぞう)が流行した。また法系の諸師を縦に配列した宋風の絵系図系祖師像として,《浄土五祖像》(二尊院),《達磨六祖像》(高山寺),《法相曼荼羅》(興福寺)がある。このほか僧侶自作の書跡,絵画,彫刻などがあり,特に禅宗では画僧の描く禅機画や詩画軸などが尊重された。また尺牘(せきとく)(書状)など禅僧の書跡は墨跡(ぼくせき)といわれ,禅宗寺院のみならず,茶掛としても賞翫されている。
仏具は元来仏教教団の生活用具であったが,仏教が発展するにつれて儀式化し,工芸の粋を集めた多彩な優品が製作されるようになる。僧具のうち袈裟(けさ)はインドでは僧侶の生活着であったが,中国や日本では衣の上に,右肩から左腋下にかけて覆う儀式化したものとなる。横に布を継ぎ合わせた長方形の五条,七条,九条袈裟などがつくられ,奈良時代のものが正倉院や法隆寺献納宝物に遺存する。袈裟は宗派によって異なり,禅宗などでは印金を施した,豪華なものもつくられ,師資相承された。鉢(はつ)もはじめは,僧侶が食事の布施を受けるための日常生活の食器で,木鉢が用いられたが,儀式化すると金銅毛彫の鉢もつくられるようになる。錫杖(しやくじよう)も毒蛇よけ,麈尾(しゆび)や払子(ほつす)も虫除け,その他如意や数珠(じゆず)なども質素な持物であったが,工芸的に装飾化された僧具となった。特殊なものに金剛鈴,金剛杵(こんごうしよ),金剛盤などの密教法具や,禅宗の雲版(うんぱん)(合図に打ち鳴らす器具),曲彔(きよくろく)(僧侶の椅子),修験では笈,入峰斧,三鈷柄剣などがある。
また荘厳,供養のために,幡や天蓋,華鬘(けまん)など堂の内外につるす荘厳具,香炉,華瓶(けびよう),水瓶,燭台,灯籠,華籠(けこ),机,卓などの供養具がある。梵音具には梵鐘,鰐口(わにぐち),鉦鼓(しようこ),磬(けい),鐃(によう),鈴(れい),法螺貝(ほらがい)など種類は多い。また法事を行うための楽器類,伎楽面,舞楽面,行道面(ぎようどうめん)などの仮面や,芸能装束などもある。これら仏教用具も,奈良時代は豊満でおおらかさがあるのに対して,平安時代は瀟洒(しようしや)で軽快さがあり,鎌倉時代になると重厚,質実となるように,絵画や彫刻と同様に,時代の特徴が顕著に示されている。
執筆者:石田 尚豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仏教の思想や信仰に基づいて、仏教独自の崇拝や儀礼、ないし教化活動の必要からつくりだされたいっさいの造形美術で、西欧のキリスト教美術と双璧(そうへき)をなす。仏教の起源がインドであるところから、仏教美術もその発生はインドであり、中国、朝鮮を経て日本にも及び、それぞれ独自の展開を示した。その多彩な展開のうち、中心をなす「仏塔」「仏教建築」「仏像」「仏画」については、それぞれの項目に詳述してある。
宗祖釈迦(しゃか)の死は紀元前485年ないし前383年ごろと考えられており、生存時すでに造形的行為があったかもしれないが、現在その遺品は残っていない。入滅後、その遺骨(舎利)は多くの信者によって分けられ、各地に持ち帰られて手厚く葬られた。その舎利を納める塔(ストゥーパ=卒塔婆(そとうば))が初期仏教美術の重要なモニュメントであり、塔自体やそれを巡る垣などには、釈迦の前生の物語である本生譚(ほんしょうたん)と仏伝を主題にした彫刻を施して荘厳(しょうごん)した。原始仏教では偶像崇拝を認めず、したがって仏陀(ぶっだ)の姿を造形化することなく、宝座、法輪、仏足跡、菩提樹(ぼだいじゅ)などで象徴的に表した。釈迦そのものを造形的に表現するようになるのは、紀元後1世紀末か2世紀の初めごろインド北部のガンダーラ地方といわれる。この地にはクシャン朝のカニシカ王(2世紀中ごろ)の時代を中心にインド・ギリシア式ともいうべきガンダーラ美術が栄え、寺院の建立、仏像の制作は空前絶後の盛況をみせた。一方、中部のマトゥラには純インド式のマトゥラ美術が生まれ、以後、釈迦の像をはじめ諸尊像の造像は全インドから国外にも及ぶに至ったのである。
仏教美術の流れを宗派別にみると、大乗美術、密教美術、浄土教美術に区分することができる。大乗仏教は釈迦入滅後に形骸(けいがい)化した伝統仏教に対し、紀元1世紀におこった革新運動で、人間救済を目ざし、釈迦の存在を超人格化して多くの仏を生み、仏菩薩(ぼさつ)など諸尊像をもつようになる。大乗に対する小乗仏教は伝統仏教の立場にたって、苦行による悟りと自己救済を目的とした。したがって、仏像はほとんど釈迦像に限られ、仏塔中心で、荘厳も本生譚、仏伝図が多く、北方仏教諸国の前期美術、およびセイロン(スリランカ)や東南アジアの南方仏教(上座部系仏教)諸国のものがこれにあたる。大乗仏教は北方ルートをたどり、中国、朝鮮、日本で盛行し、やがて密教美術を生んだ。密教美術に対することばとして顕教美術があり、日本では密教以前の、奈良仏教美術をさす。しかし、普通、小乗美術、顕教美術の語はあまり用いられない。
密教美術は4世紀ごろ、インドのナーランダ地方でおこり、インド古来のバラモン教の思想をも取り入れたもので、日本には平安初期に空海によって伝えられた。密教は室内での祈祷(きとう)を主とし、即身成仏、現世利益(げんぜりやく)を目的とするところから、千手観音(せんじゅかんのん)、不動明王など多面多臂(たひ)の異様な尊形や、怒髪忿怒(どはつふんぬ)相といった密教特有の菩薩像を生み、内容的にも表現上でも変化と複雑さを加えた。また『華厳(けごん)経』の説く壮大な宇宙観を表す曼荼羅(まんだら)図が描かれた。
平安時代には、仏滅後訪れるという末法思想が強く仏教徒の心をとらえ、末法第一年とされた1052年(永承7)を境に浄土信仰は急速に発達。阿弥陀(あみだ)信仰が広まり、弥陀の極楽浄土を描く来迎(らいごう)阿弥陀が盛行した。
また、密教と日本の神との神仏混淆(こんこう)思想の結果、本地垂迹(ほんじすいじゃく)美術が生まれた。日吉(ひえ)、熊野、春日(かすが)社の本地仏として釈迦、阿弥陀、不空羂索(ふくうけんじゃく)などが祀(まつ)られ、また山岳信仰と結び付いて蔵王権現(ざおうごんげん)のような修験(しゅげん)道の尊像がつくられたのはその例である。
鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)による臨済禅、道元による曹洞(そうとう)禅、さらに江戸時代には隠元による黄檗(おうばく)禅が伝えられたが、禅宗では「不立(ふりゅう)文字、見性(けんしょう)成仏」を唱えたので仏像の造像は衰退するに至った。しかし師資(しし)相承を重んずるため、宗祖菩提達磨(だるま)をはじめとする祖師像や、直接の師の肖像である頂相(ちんそう)が尊重され、多くの迫真の画像・彫像がつくられた。また、禅の悟りの様相を描いた水墨による禅機画が描かれ、これから室町時代の日本独自の水墨画の世界が形成されていった。
このように、日本の造形美術は仏教を原動力として大きな発展を遂げた。たとえば庭園にしても、その造形の基本に自然即仏土といえる仏教教理があり、これが自然崇拝の精神と結び付いて、日本独自の造形表現に達したのである。仏教美術のなかで磨き抜かれた日本人の美的感覚は、仏教が衰退した近世から現代に至るまで、日本人の生活のなかに根強く受け継がれているのである。
[永井信一]
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…だがいずれにしても,この時代の遺品の数はきわめて乏しく,王羲之の《喪乱帖》,顧愷之の《女史箴図》といった後世模本,あるいは南京西善橋南朝墓の竹林七賢と栄啓期図磚画,太原市南郊の北斉婁叡墓壁画などの墳墓出土資料を通してうかがうしか手はないのである。 ところで,魏晋南北朝美術を支えたいま一つは仏教美術である。仏教は後漢の明帝のころに伝わったといわれるが,後漢末のホリンゴール(和林格爾)漢墓や沂南(ぎなん)画像石墓では,仏教図像が中国古来の西王母などの神仙にまじって表され,伝来当初における仏教受容のありさまが知れる。…
…これは本来的な意味で宗教美術とはいいがたい。東洋では前3世紀ころから始まった仏教美術においては,釈迦はしばらく人間の形をもっては表現されず,象徴(仏足跡,蓮華,法輪,菩提樹,仏塔など)によってその存在が示されただけであった。その理由はユダヤ教やイスラムなどの場合と同様であったろうと思われる。…
※「仏教美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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