パリ大学(読み)ぱりだいがく(英語表記)Université de Paris

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学
ぱりだいがく
Université de Paris

13世紀に創立されたフランス最古の大学。「ソルボンヌ」の通称で知られる。ボローニャ大学(イタリア)やオックスフォード、ケンブリッジ両大学(イギリス)などと並ぶヨーロッパ屈指の名門大学として発展したが、20世紀なかばには単一の大学で学生数20万人を擁するまでにマンモス化したため、1968年に解体され、パリ第一~第十三大学までの13の新制大学に再編され、現在に至っている。

[井上星児]

歴史

パリ公教会の付属学校などを母体として、1215年に正式に創立。当初、ともに聖職者身分である教授と学生との研究・教育を目的とする同業組合ギルド)であったが、13世紀中の前後数回に及ぶ自治権獲得闘争の結果、ローマ教皇と国王から自治権をかちえた。以後、中世全体を通じて、学士課程(自由学部)では3学(文法・修辞学・論理学)と4科(数学・幾何学・天文学・音楽)を教え、学士号取得者にはさらに修士号・博士号への道を開く専門課程神学部法学部医学部)に進ませるなどの制度で、ヨーロッパ全域から学びにくる英才の指導・育成にあたった。なかでも神学部は有名で、その中心的存在であったソルボンヌ学舎(13世紀に僧侶(そうりょ)ソルボンRobert de Sorbon(1201―74)が建設した学寮兼研究棟)は、のちにはパリ大学全体の代名詞ともなった。しかし、ルネサンス期以後は、近代科学の進展についていく能力を失って停滞し、フランス革命後の1790年代には、パリ大学は国権の及ばない学者・学生の硬直化したギルド団体として革命議会に糾弾され、大学(当時の表記はファキュルテfaculté。「分科大学」の意)の名称が禁止された。

 しかし、ナポレオン1世の「帝国学制」の確立に伴い、ふたたび「ファキュルテ」の名称が復活された。しかも、「国にかわって」学位を授与する権利が認められ、同時に教会との結び付きが消滅した(1806)。第三共和制期には、文部大臣ジュール・フェリーによる改革が行われ、1893年と1896年の二つの法律により、一つの大学区に所在するいくつかのファキュルテの集合体に「ユニベルシテ」universitéという名称が与えられることになり、ここに、法人格と財政上の自治権を有する「パリ大学」が成立。同時に、地方にも1大学区に1大学(ユニベルシテ)という大学網が確立され、20世紀に入って発展する。

 しかし、1966年11月の「第2回カーン会議」(高等教育と学術研究の改革のための最高の専門家会議)では、当時すでに全国の大学生の30%にあたる20万人の学生を抱えていたパリ大学の深刻な状況が報告され、その改革を中心に、全国23の各大学の学生数を適正規模(最大2万人)に抑え、パリ地域圏には15前後の大学を設置する案など、各種の改革案が検討されるに至った。その後1968~1969年の、世界を揺るがしたパリ大学の寮自治紛争を火種とする学生の反乱(五月革命)をきっかけに、伝統的な大学の管理・運営のあり方が根本から問い直され、「参加」を基本理念とする文相エドガール・フォールによる画期的な「高等教育基本法」が1969年制定・施行された(フォール改革)。この改革の結果、1970年代の初めまでに、パリ大学をはじめとする全国23の大学は解体・再編され、最終的には70余の新制大学が、旧来の学部(ファキュルテ)にかわる新しい「教育・研究単位機関」(UER=Unités d'Enseignement et de Recherche)を基盤として発足した。

[井上星児]

現況

1960年代末の改革で旧パリ大学は解体され、市内の「パリ大学区」にパリ第一~第九大学が、市外の「ベルサイユ大学区」にパリ第十、第十一大学が、また同じく市外の「クレテイユ大学区」にパリ第十二、第十三大学が設置され、国民に開かれた新制国立総合大学として再出発した。

 13の大学の規模や設置する課程はさまざまであるが、それらのなかで大きな特色をもつ大学の一つに、パリ第八大学(通称「バンセンヌ大学」)がある。同大学の(1)科目履修の大幅な自由化、(2)現代外国語と情報科学の必修化、(3)バカロレアbaccalauréat試験(後述)を免除した入学者の受け入れ、(4)夜間クラス・週末クラス・夏季クラスの開設による社会人に対する「生涯学習」支援、(5)学年ごとの取得単位数を定めず、優秀者には通常より短期間で学士号などを授与する弾力的措置、(6)産業界など外部からの講師の積極的招聘(しょうへい)など、一連の「実験的」なシステムは、全国の大学の管理運営制度に大きな影響を与えることとなった。

 また、これら13大学の入学者の決定については、一般の国立大学の場合と同様、基本的にはバカロレア試験(高校修了認定と大学入学資格付与を兼ねる統一的国家試験)の合格が必要十分条件であるが、一般にパリ地域圏の諸大学へ志願者が集中しがちであるため、1970年代後半から13大学の多くが、バカロレア資格を取得した志願者に対してさらに独自の入学者選抜を行うようになった。2000年現在、全13大学の在籍者数は、約35万人である。

[井上星児]

『小林良彰著『欧米大学レポート――ハーバード大学とパリ大学』(1983・三一書房)』『藤沢たかし著『63歳からのパリ大学留学』(1984・新潮社)』『浜野トキ著『定年からのフランス留学』(1991・日本放送出版協会)』『遠藤周作著『フランスの大学生』(1977・角川書店)』『岩城和哉著『知の空間――カルチェラタン・クォードラングル・キャンパス 建築巡礼(シリーズ37)』(1998・丸善)』『岡本太郎著『リリカルな自画像』(2001・みすず書房)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ大学」の意味・わかりやすい解説

パリ大学
パリだいがく
Universités de Paris I à XIII

大部分パリに所在する 13の単位キャンパスから成るフランスの共学制大学。国庫によって維持されるが高度に自治的である。単位キャンパスはI~XIIIの番号が付けられ,たとえばIには経済学・法学など,VIには数学・物理学など,それぞれ固有の学部もしくは学科を擁する。 1968年の高等教育改革法に基づき 70年に改編された。前身は,1170年頃創立のパリ大学で,これはノートルダム大聖堂付属学校から発展,教員,学生それぞれの自治団体ウニベルシタスを形成,教皇庁の支援でアルプス以北のキリスト教神学の一大中心に成長した。中世の完成期には神学,教会法学,医学の3上級学部と教養学の下級学部とから成り,各学部長はドワイアンと呼ばれ,最初教養学部長であったレクトール (学長) が結果的に全大学を統括するにいたった。 16~17世紀には各学寮 (コレージュ ) の独立性が強まり大学は実質的に学寮の連合体となった。なかでも有名だった学寮はソルボンヌで,1257年頃神学者 R.ソルボンによって設立され,パリ大学神学部の代名詞となった。フランス大革命 (1789~99) とナポレオンの学制改革の結果,パリ大学は,新設のフランス大学の大学区 (アカデミー) の1つとなり,神学部などの廃止,自然科学部の創設などが行われ,特定の政治や宗教の教説から中立の態度をとった。 20世紀なかばには,おもに法学部,医・薬学部,自然科学部,文学部などを有し,600以上の講座があった。フランス全土だけでなく,海外からも多くの留学生がきている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android