日本大百科全書(ニッポニカ) 「グリーンスパン」の意味・わかりやすい解説
グリーンスパン
ぐりーんすぱん
Alan Greenspan
(1926― )
アメリカのマネタリスト(通貨政策重視派)経済学者。1987年8月から2006年1月までアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。柔軟で的確な金融政策の運営で、アメリカ経済の黄金期をもたらした手腕は「マエストロmaestro」(名指揮者)と称される。市場との巧みな対話力や政界・金融界との太いパイプなどを駆使し、87年10月の「ブラック・マンデーblack Monday」(株価大暴落)、2001年9月の同時多発テロなどの経済危機を乗り切った。FRB議長在任期間は歴代2位。2006年1月末に、議長職をベン・バーナンキに引き継いだ。
ニューヨーク市生まれ。父は株式ブローカーで、幼少期に大恐慌を経験している。高校卒業後、いったんは音楽家を志しジュリアード音楽院でクラリネットを吹いていたが、進路を変え、ニューヨーク大学で経済学を学んだ。1948年に同大卒、50年に経済学修士、77年経済学博士号を取得。53年に経済コンサルタント会社、タウンゼンド・グリーンスパン社を設立し、その正確な経済分析力から、1回の講演料が数万ドルとされる花形エコノミストになった。70年から74年までアメリカ大統領経済諮問委員会(CEA)顧問、74年から77年までフォード政権下でCEA委員長などを務めた。財務省やFRB顧問なども歴任。ポール・ボルカーの後任として87年、元大統領レーガンからFRB議長に指名された。
議長就任直後こそ、その手腕を疑問視する声もあったが、機動的な金融緩和への転換でブラック・マンデーを乗り切って信頼の素地を築いた。その後1994年末のメキシコ金融危機、97年のアジア通貨危機などを次々に克服。市場経済の信奉者ながら、96年末には加熱気味のアメリカ株式相場を「irrational exuberance」(根拠なき熱狂)と表現するなど、ときに市場を牽制(けんせい)し、アメリカ経済の「great moderation」(大いなる安定)をもたらした。18年間の在任期間中、先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)には合計55回出席。レーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)の4人の大統領から信任され、アメリカ大統領と並び、世界経済や国際社会にもっとも影響力のある人物といわれた。
2005年には、アメリカ市民に与えられる最高勲章である「自由勲章」を受章。夫人はNBCテレビの著名ジャーナリスト、アンドレア・ミッチェル。
[矢野 武]
『デービッド・B・シシリア、ジェフリー・L・クルックシャンク著、伊藤洋一訳『グリーンスパンの魔術』(2000・日本経済新聞社)』▽『伊藤洋一著『グリーンスパンは神様か?』(2001・ティビーエス・ブリタニカ)』▽『ラビ・バトラ著、ペマ・ギャルポ、藤原直哉監訳『グリーンスパンの嘘』(2005・あ・うん)』▽『ボブ・ウッドワード著、山岡洋一・高遠裕子訳『グリーンスパン』(日経ビジネス人文庫)』