日本大百科全書(ニッポニカ) 「グレートフル・デッド」の意味・わかりやすい解説
グレートフル・デッド
ぐれーとふるでっど
Grateful Dead
アメリカのロック・グループ。もともとはブルーグラス(ギター、ウッド・ベース、フラット・マンドリン、バンジョー、フィドルなどのアンサンブルにハイ・トーンのボーカルがのる音楽)のバンジョー・プレーヤーだったジェリー・ガルシアJerry Garcia(1942―95、ボーカル、ギター)、ボブ・ウィアBob Weir(1947― 、ボーカル、ギター)、大学で実験音楽を専攻していたフィル・レッシュPhil Lesh(1940― 、ボーカル、ベース)、ビル・クリュツマンBill Kreutzmann(1946― 、ドラム)、ロン・マッカーナンRon McKernan(1946―73、ボーカル、ハーモニカ、キーボード)が1960年代前半に出会い、バンドをスタートした。結成当初、彼らはワーロックスと名乗っていた。
65年ワーロックスはシングルを1枚制作しているが、それ以上に重要なことは、その年、当時は合法だったLSDのアシッド・テスト(映像や音楽とLSDを使って深層意識を探求するイベント)に参加し、そのときの非日常的な意識の体験が彼らの音楽の流れを形づくった。しかし、グレートフル・デッドはブルース、カントリー・アンド・ウェスタンなどのルーツ・ミュージックから、ハイテクによる実験音楽、ジャズ、ファンクなどアメリカ音楽のあらゆる要素とメソッドを自分たち流に成熟させた希有(けう)なバンドであり、LSDとの関わりばかりが強調されすぎることは理解を誤らせる。
グループ名をグレートフル・デッドに変えて67年にワーナー・ブラザーズと契約。当時、サンフランシスコで花開いたヒッピー・カルチャーの代表的なバンドとして自由な創作活動を展開。さらにミッキー・ハートMickey Hart(1943― 、ドラム)も参加。『ライヴ/デッド』(1969)はガルシアの流麗なギターと自由に形を変えるバンド演奏の一体感が初めてレコードに刻まれた記念碑的な作品だった。また、『ワーキングマンズ・デッド』『アメリカン・ビューティ』(ともに1970)でアメリカン・ミュージックのルーツに回帰し、心暖まる歌を聴かせるバンドとしての姿も見せる。
その後は、自分たちの会社を設立したり、メンバー各自のソロ活動も盛んになったが、経済的な理由から一時活動停止に追い込まれたこともある。80年代以降は、常に数万人レベルのファンを動員するバンドとして年間130回以上のライブをこなす。熱心なグレートフル・デッド・ファンは、デッド・ヘッズと呼ばれ、彼らのライブをどこまでも追いかける。レコード業界の流行とは別のもう一つのコミュニティをファンとバンドは形成し、その規模は、86年『イン・ザ・ダーク』がバンドとしては初のヒット・チャート入りした時期と前後して拡大していった。
しかし、80年代から糖尿病をわずらい死線を彷徨(さまよ)ったガルシアが世を去り、バンドは解散を宣言する。その後も残ったメンバーは過去のライブ音源の発掘とリリース、ほかのバンドと組んだツアーなどの活動を続ける。
[中山義雄]