日本大百科全書(ニッポニカ) 「サルト」の意味・わかりやすい解説
サルト(イタリアルネサンス期の画家)
さると
Andrea del Sarto
(1486―1530)
イタリア盛期ルネサンスの画家。本名アンドレア・ダーニョロAndrea d'Agnolo。通称は父が仕立屋(サルト)であったことに由来。フィレンツェに生まれ、7歳で同地の金工家に学び、のちピエロ・ディ・コジモの弟子となる。1508年医師薬剤師組合に画家として登録され、フランチアビジオとともに工房を営む。10年の聖アヌンツィアータ聖堂の壁画『聖ベニッツィ伝』以後フィレンツェ諸聖堂の壁画制作に携わる。10~26年スカルツォ修道院のグリザイユ装飾『洗礼者聖ヨハネ伝』。14年聖アヌンツィアータ聖堂の壁画連作『マリア伝』に従事、傑作『マリアの誕生』を描く。板絵の最高傑作としては17年の『アルピエの聖母』(ウフィツィ美術館)があげられる。18~19年フランソア1世の招請を受けフォンテンブローに赴く。晩年においてもフィレンツェ派の優れた色彩家として『最後の晩餐(ばんさん)』(聖サルビ修道院)、『サッコの聖母』(聖アヌンツィアータ聖堂)を描き、また肖像画家としても秀で多くの優品を残す。その画風はフィレンツェ盛期ルネサンスの静謐(せいひつ)典雅な古典様式を継承しながら、人物の表情、身ぶりに心理描写、律動感という新たな要素を加え、次代のマニエリズモへの移行を暗示している。その工房からはポントルモ、ロッソという初期マニエリズモの代表的画家が輩出した。
[三好 徹]
サルト(民族)
さると
Sart
中央アジアのウズベキスタン共和国を中心に、タジキスタン、カザフスタンの各共和国に住む、人種的・文化的にはイラン系のタジク人とトルコ系のウズベク人の混合民族。サルトの住むステップ地帯は歴史的にもコーカソイドとモンゴロイドの混血の場であり、サルトはその典型例であるといえる。もともとサルトという民族は存在せず、征服者として後からきたロシア人が、この地方の人々を民族単位ではなく生業で区分し、遊牧民に対してオアシスを中心に定住している人々をサルトとよんだことに始まる。つまり、イラン系、トルコ系を含むオアシス定住民をさすことばであり、民族用語としては意味がなく現在では一般には用いられない。形質的には中背、短頭で、髪は黒、皮膚および目の色は濃い褐色であることなど、モンゴル的特質が顕著にみられる。伝統的に男女の区分が厳しく、居室や食事も別で、女性は外出時には黒いベールをまとい、年をとると歯を黒く染める慣習があった。男は頭を剃(そ)りひげを蓄えるため床屋が多く、その床屋たちがかつては外科医としての役割を果たしていた。宗教はスンニー派のイスラム教で、いまでも内婚率は9割以上ときわめて高い。
[片多 順]