フィレンツェ派(読み)ふぃれんつぇは(英語表記)scuola Fiorentina

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィレンツェ派」の意味・わかりやすい解説

フィレンツェ派
ふぃれんつぇは
scuola Fiorentina

13世紀後期から16世紀中ごろまでのイタリアフィレンツェの絵画に用いられる名称。もともと、歴史的事実を整理・分類する「派」という用語にはあいまいさが伴う場合が多く、このフィレンツェ派という語も、単純な様式的同質性や、師から弟子へ、さらにその弟子へと受け渡される切れ目のない連続性を意味するのではない。しかし、若きミケランジェロマサッチョの作品のみならず、ジョットの作品をも研究した証拠を自らの素描にとどめているように、フィレンツェに特有な芸術的伝統の継承ということが生ずる。そして、いっそう漠然としてはいるが、より本質的な部分での共通性を上記の期間内のフィレンツェの画家たちに認めうると考えられもするところに、この語を用いる理由がある。

 フィレンツェ絵画の輝かしい時代は、その新鮮な現実感覚によって伝統的な中世絵画と決別する14世紀前半のジョットをもって始まる。このジョットの進めた方向に同様な決然たる態度でさらにたくましい一歩を踏み出したのは、ルネサンス絵画の創始者たる、ほぼ1世紀後のマサッチョであった。おりしも建築家ブルネレスキは幾何学的遠近図法を発見し、これはマサッチョの壁画ドナテッロ浮彫りにただちに採用されることになる。幾何学的遠近図法にみられる合理的、知的傾向はフィレンツェの美術家の多くに認められる。15世紀前期の彫刻家ギベルティは自著『イ・コムメンタリイ』のなかで、美術家に必要とされる学問を列挙し、そのなかに解剖学をあげているが、15、6世紀に人体解剖を試みたと伝えられる美術家たち、すなわちアントニオ・ポライウオーロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ロッソ・フィオレンティーノらがいずれもフィレンツェの美術家であるのは偶然ではあるまい。16世紀の画家・建築家バザーリは著書『美術家列伝』のなかで、フィレンツェ美術、わけても絵画を優秀ならしむる要因として、美術家たちが互いに切磋琢磨(せっさたくま)するよう促すところの、凡庸なものに満足しないこの都市の自由な批判精神をあげている。事実、美術家個々人が他人の模倣に甘んぜず、豊かな探求心をもって自己のスタイルを求めてゆくところにこそ、フィレンツェをして2世紀以上にもわたってヨーロッパのなかのもっとも活力ある美術の中心とした原因がある。

 かくて、15世紀前半には、マサッチョのほかに、ウッチェロ、フラ・アンジェリコ、ドメニコ・ベネチアーノ、カスターニョ、フィリッポ・リッピらが、世紀の後半になるとポライウオーロ、バルドビネッティ、ボッティチェッリ、フィリッピーノ・リッピ、ギルランダイヨらが活躍する。レオナルドも活動期はボッティチェッリとあまり変わらない。16世紀にはミケランジェロ、フラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルトらが現れ、ついで、ロッソ・フィオレンティーノ、ポントルモ、ブロンツィーノといったマニエリスムの画家がフィレンツェ絵画の最後に登場する。

[西山重徳]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィレンツェ派」の意味・わかりやすい解説

フィレンツェ派
フィレンツェは
Scuola fiorentina

イタリアのフィレンツェを中心に,14~16世紀にルネサンスの美術活動の主導的地位にあった画派。建築,彫刻,絵画の各分野でフィレンツェ的性格が見出されるが,一般には主として絵画の流派として用いることが多い。この画派は造形的な形態主義と理知的な合理主義を特徴とする。同派の始源はチマブーエまでさかのぼることができるが,真の確立者はマサッチオで,彼はチマブーエの弟子ジョットの造形的厳格さに帰って事実の本質と,空気と光と色彩によるきびしい造形性を追究し,そこに革新的様式を樹立した。マサッチオに続いた同派の画家たちは,マサッチオの自然に対する新鮮な直感がとらえた写実的成果を理知的に科学的に解明して,そこに自然主義の主流を形づくるが,これは 15世紀同派の重要な特質であって,後半になると,その自然主義的傾向はますます拍車がかけられてくる。ポライウオロやベロッキオらは,一層積極的に写実探究における科学的正確さや技法的開発を推し進め,典型的な情緒主義の画家と目されるボティチェリさえも,一時期,自然主義的写実探究に熱中した。そして,それまでの自然主義的写実は,レオナルド・ダ・ビンチによって完成をみるが,さらにレオナルドは,その写実主義を止揚して主客融合の理想主義的古典様式にまで高めた。ミケランジェロにあっては,それがさらに精神的に深く追究されるが,ここにいたって同派はすでにその発展の極限に達していた。 16世紀初頭,もはや発展の可能性が尽きたときから,フィレンツェの政情不安も災いして同派は凋落を始める。それでも初めの四半期は,バルトロメオやアルベルティネリやサルトらが典雅な古典様式を繰広げてなお昔日の面目を保ちえていた。さらに中頃から後半にかけては,ロッソ・フィオレンティーノやポントルモやブロンツィーノら,いわゆるマニエリストたちの活動がみられたが,ベネチア派やローマ派などの活況に押しやられてすでに主導的地位を失っていた。

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