ロッソフィオレンティーノ(英語表記)Rosso Fiorentino

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ロッソ・フィオレンティーノ
Rosso Fiorentino
生没年:1495ころ-1540

イタリアの画家。本名ヤコポ・デ・ロッシGiovanni Battista di Iacopo de' Rossi。フィレンツェ生れの,第一世代のマニエリストの一人。1530年以降フランスに渡り,フォンテンブロー派の形成に貢献した。バザーリによれば彼に師はなく,追随する巨匠もいなかった。しかし初期の作品には,フラ・バルトロメオとアンドレア・デル・サルトの定式化した古典主義的様式の影響が著しい。しかし1516-17年,アヌンツィアータ教会にアンドレア・デル・サルトとともに描いた《聖母の被昇天》には,すでにその悪魔的な図像がみられる。ポントルモと同じく彼の芸術も流行の定式に意識的な反逆を試みたものではないが,古典主義的形式の中に感じられた空間と量体の間の危機をおのずから露呈している。さらに,ミケランジェロの《カッシナの戦》の下図に感化され,23-24年に描かれた,人体の筋肉的な動きと誇張された立体とに焦点を置いた《エテロの娘とモーセ》において,明白な反古典主義様式を確立。21年の《キリストの降架》は,自然模倣から独立した独自の形体と色彩の美を表現した初期マニエリスムの傑作である。23年クレメンス7世の即位とともにローマに出るが,27年ローマの劫掠に会い,中部イタリア各地を転々とする。30年フランソア1世に招かれてフランスに赴き,同じイタリアの画家プリマティッチョらと協同してフォンテンブロー宮殿室内装飾を手がけた。その芸術はファンタスティックで優美な奇想にみちており,16世紀後半のフランスの装飾趣味に多大な影響を与えた。パリで没。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ロッソ・フィオレンティーノ
Rosso Fiorentino

[生]1494.3.8. イタリア,フィレンツェ
[没]1540.11.14. フランス,フォンテンブロー
イタリアのフィレンツェ派の画家兼装飾家。本名 Giovanni Battista di Jacopo。アンドレア・デル・サルトに学んだとされ,同門のヤコポ・ダ・ポントルモや,またミケランジェロからも影響を受けた。ポントルモとともに,フィレンツェ派の初期マニエリスム画風を代表する一人。1510年頃からアルブレヒト・デューラーの影響も加えて反古典主義的様式をみせはじめ,1518年のサンタ・マリア・ヌオーバ病院の『聖母子と四聖人』(ウフィツィ美術館)や 1521年のボルテラ大聖堂の『キリスト降架』(ボルテラ市立美術館)で,個性的なマニエリスムの画風を確立した。1524年頃~1527年はローマに滞在。1530年にフランスのフランソア1世の招きでフォンテンブロー宮の装飾に従事。没するまで同宮殿の造営とフォンテンブロー派の指導に尽力し,同派の代表者の一人となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ロッソ・フィオレンティーノ
ろっそふぃおれんてぃーの
Il Rosso Fiorentino
(1494―1540)

イタリアの画家。本名Giovanni Battista di Jacopo。フィレンツェに生まれ、サルトの工房を経て、1517年独立。同門のポントルモとともに、フィレンツェ初期マニエリスムの代表的画家となる。18年のサンタ・マリア・ヌオーバ病院の祭壇画『聖母子と四聖人』(ウフィツィ美術館)と21年のボルテッラ大聖堂のための『十字架降下』(ボルテッラ絵画館)において、当時フィレンツェを支配していた静謐(せいひつ)な盛期ルネサンス様式に対抗し、動勢著しい、新奇で個性的な画風を確立した。24~27年ローマ滞在中、ミケランジェロの影響を受ける。30年ベネチアを経てフランスに赴き、32年以降フォンテンブローのフランソア1世の宮廷画家として、プリマティッチョとともに、『ポモナ』(1532~35)および大画廊の装飾(1534~37)に従事。同地で客死したが、同宮殿の装飾に携わったフォンテンブロー派の指導・育成を通じ、マニエリスム様式のイタリア国外、すなわちフランスやフォンテンブロー様式の影響を受けた北方への普及に大きな役割を果たした。

[三好 徹]

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世界大百科事典(旧版)内のロッソフィオレンティーノの言及

【フォンテンブロー派】より

…16世紀フランスで,フォンテンブロー宮殿を中心に活動した美術家たちとその芸術を指す。2期に分けられ,第1期はフランソア1世が宮殿の大改築を意図して,イタリアから1530年,ロッソ・フィオレンティーノ,32年プリマティッチョを招き,彼らはチェリーニをはじめ多くのイタリア人美術家を率いて制作した。それはイタリア・マニエリスムのフランス移植を意味し,フランスの古典主義的伝統の基盤を形成するものであったが,70年のプリマティッチョの死をもって区切りとする。…

【マニエリスム】より

…したがって,すでに16世紀に,マニエリスム的傾向を非難する古典主義的理論家に,マニエリストを〈ミケランジェロの模倣者たち〉と同一視する傾向があったのは当然のことといえる。初期マニエリストの画家のうち,ロッソ・フィオレンティーノ,とりわけポントルモはミケランジェロから決定的な影響を受け,古典主義の限界を脱したということができる。しかし,ミケランジェロの芸術が他を圧して16世紀を支配するようになったのは,ミケランジェロの以上の特徴が,〈自然模倣〉という原則から〈主観的表現〉への変化を示していたためである。…

※「ロッソフィオレンティーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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