イタリアの画家・彫刻家・建築家。ダビンチ、ラファエロと並ぶルネサンス芸術の3巨匠の一人。1475年3月6日イタリア中部カプレーゼ生まれ。フィレンツェの名門貴族メディチ家に才能を見いだされ、芸術を学んだ。代表作はバチカン・サンピエトロ大聖堂のピエタ像、フィレンツェ・アカデミア美術館のダビデ像、バチカン・システィーナ礼拝堂の「最後の審判」と天井のフレスコ画など。サンピエトロ大聖堂の円屋根の設計も手掛けた。1564年2月18日、ローマで死去。(フィレンツェ共同)
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イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ(3月6日)、イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没(2月18日)。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描、エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。
[裾分一弘]
初め、フィレンツェの画家ギルランダイヨに師事するが、14歳のときからメディチ家の保護を得て、彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニの門に入り、かたわらメディチ家収集の古代彫刻を研究、以来彫刻に専念して、彫刻家としての自覚を生涯もち続けることになる。徒弟時代の作品には、『階段の聖母』『ケンタウロマキア』(ともにフィレンツェ、カサ・ブオナロッティ)があり、フィレンツェの彫刻家ドナテッロや古代彫刻からの影響が顕著である。1496年、21歳でローマに出て、『ディオニソス』(フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館)、続いて『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)を制作。この『ピエタ』は、聖母の胸にかけられた襷(たすき)にミケランジェロの署名を残す唯一の作品である。
1501年フィレンツェに帰り、市当局の委嘱を受けて『ダビデ』像の制作にかかり、3年半ほどの歳月をかけて完成。この像の設置場所に関し種々の意見があったが、制作者の希望がいれられてパラッツォ・ベッキオ前に置かれ、自治都市フィレンツェの象徴とみなされた(現在原作は同市アカデミア美術館に収蔵)。像は古い失敗作の大理石塊を素材としており、したがって死せる大理石から生けるダビデを制作したことにより、文字どおりのデビュー作となった。トンドとよばれる2個の円形浮彫り『ピッティの聖母子』(バルジッェロ国立美術館)、『タッデイの聖母子』(ロンドン、ロイヤル・アカデミー)もほぼ同時期の制作である。
ミケランジェロがユリウス2世廟(びょう)の制作を教皇から依頼されたのは、1505年30歳のときである。当初のプランでは、墓廟は7.6メートル×11.3メートルの長方形台座の上に立ち、それに等身大以上の彫像40体が置かれて、サン・ピエトロの堂内に安置されるはずの雄大な構想であった。『瀕死(ひんし)の奴隷』『反抗する奴隷』(ともにルーブル美術館)、『勝利』(パラッツォ・ベッキオ)、および今日フィレンツェのアカデミア美術館収蔵の『若い奴隷』『髭(ひげ)の奴隷』『アトラスの奴隷』『目ざめる奴隷』などは、このモニュメントを飾るために制作されたものである。ユリウス2世廟は、教皇なきあとその規模がしだいに縮小されて、今日その名で残る構想は第五次契約によるミケランジェロ67歳の制作で、ローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂内にある。墓廟下段の3点(中央の『モーセ』、左の『ラケル』、右の『レア』)が彼の手になる彫像である。
1513年、ユリウス2世の逝去に伴い、メディチ家から出たレオ10世が即位し、20年45歳のとき、メディチ家の菩提寺(ぼだいじ)サン・ロレンツォの新聖器室にメディチ家の墓廟の制作を依頼されることになる。以来ミケランジェロはユリウス2世の遺族であるローマのロベレ家と、フィレンツェのメディチ家の板挟みのなかで両市の間を行き来し、馬車馬のように彫像の制作に励む。『ミケランジェロ伝』の作者コンディビは、この時期のミケランジェロの状況を「墓廟の悲劇」とよんでいる。メディチ廟は、新聖器室の祭壇に向かって左にロレンツォ(ウルビーノ公)、右にジュリアーノ(ヌムール公)の彫像および石棺が置かれ、各石棺の上にそれぞれ2体の寓意(ぐうい)像がのる。すなわちロレンツォの石棺には『曙(あけぼの)』と『夕』、ジュリアーノには『昼』と『夜』の、いずれも体長約2メートルの彫像である。また祭壇の向かいには『聖母子』が置かれている。
ミケランジェロは若いころからピエタ像の制作に執念を抱き、前記サン・ピエトロの『ピエタ』のほかに、フィレンツェ大聖堂の『ピエタ』、ミラノのカステロ・スフォルツェスコの『ロンダニーニのピエタ』を残している。フィレンツェの『ピエタ』は75歳のころの制作であるが、中途放棄され、のち弟子の手によって今日の状態に仕上げられたため、左端のマグダラのマリアは比例を失っている。後方中央のニコデモの顔は、ミケランジェロの自像であるという。『ロンダニーニのピエタ』は、ミケランジェロが死の6日前まで鑿(のみ)を振るっていたことが伝えられる未完の彫像で、磨かれているイエスの両脚と左腰、離れた位置に残されている右腕は当初の案による制作であろう。このピエタの像形は異例のもので、死せるイエスが生けるマリアを背負って立つポーズであり、巨匠晩年の信仰、芸術、哲学の結晶した境地を示すと思われる。
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ミケランジェロは1504年、『ダビデ』像を完成した年、フィレンツェのパラッツォ・ベッキオに『カッシーナの戦い』の大壁画を描く依頼を市から受けた。これは先輩レオナルドの『アンギアリの戦い』とともに、同じ会議室を飾る競作となるはずであったが、諸般の事情で双方とも進捗(しんちょく)しないまま中断し、今日では若干の素描と模写を残すのみである。
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂内にフレスコの大壁画を描くことになったのは、やはり教皇ユリウス2世の委嘱による。フレスコの技法に習熟せず、かつあおむいて天井に描くという難事業で、彼は肉親への手紙で「彫刻家ミケランジェロが壁画を描く」苦衷を訴えている。天井画の天地創造に始まる9場面(幅13メートル強、奥行40メートル強)は、33歳の1508年から約3年、また同じ堂内正面の『最後の審判』(約14.5メートル×13メートル)は約30年後、パウルス3世の依嘱により36年から41年まで5年半の歳月をかけて描かれたものである。巨人のような「怒れるキリスト」が中央に君臨する最終審判図では、諸聖者のほか、救われる魂、罰せられる魂、あわせて400名近くが描かれる。左の天国へ昇る魂と右の地獄へ落ちる魂との、大きく回転する群像の動的構図と動的表現は、ルネサンスの古典様式が解体し、激情的なバロック様式への推移をみせている。
その他の壁画には、バチカンのパオリーナ礼拝堂の『パウロの改宗』(1545?)と『ペテロの磔刑(たっけい)』(1550)がある。また、1504~06年ごろのテンペラによる円形画『聖家族』(ウフィツィ美術館)は、綿密な構図上の配慮と入念な描法により、とくに注目すべき作品である。
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ミケランジェロが建築の仕事に携わるのは、1516年41歳のとき、レオ10世からフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード装飾を命じられたのが最初である。その後、サン・ロレンツォ内ラウレンティアーナ図書室の内装、階段の設計(1524~26ころ)に携わり、35年には教皇庁の建築、彫刻、絵画総監に任ぜられている。47年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となって、大円蓋(えんがい)の木製模型を制作し、そのほかローマでは、カンピドリオ広場、ポルタ・ピア、ファルネーゼ宮の設計にも関与している。
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『裾分一弘編著『ミケランジェロの素描』(1973・岩崎美術社)』▽『F・ハート著、久保尋二訳『ミケランジェロ』全3冊(1973~75・美術出版社)』▽『富永惣一解説『世界彫刻美術全集9 ミケランジェロ』(1975・小学館)』▽『吉川逸治・田中英道解説『世界美術全集6 ミケランジェロ』(1975・集英社)』▽『J・S・アッカーマン著、中森義宗訳『ミケランジェロの建築』(1976・彰国社)』▽『コンディヴィ著、高田博厚訳『ミケランジェロ伝――付ミケランジェロの詩と手紙』(1978・岩崎美術社)』▽『ロマン・ロラン著、高田博厚訳『ミケランジェロの生涯』(岩波文庫)』▽『トルナイ著、田中英道訳『ミケランジェロ――彫刻家・画家・建築家』(1978・岩波書店)』▽『コロンビエ他著、若桑毅・若桑みどり訳『世界伝記双書6 ミケランジェロ』(1983・小学館)』▽『青木昭著『図説ミケランジェロ』(1997・河出書房新社)』▽『田中英道著『ミケランジェロの世界像』(1999・東北大学出版会)』▽『田中英道著『ミケランジェロ』(講談社学術文庫)』▽『ロス・キング著、田辺希久子訳『システィナ礼拝堂とミケランジェロ』(2004・東京書籍)』
イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として,質量ともに西洋美術史上第一級の制作活動を続け,それまで一般に職人的存在とみなされていた芸術家の地位の確立に貢献した。父親はカプレーゼCapreseの行政長官で,フィレンツェの小貴族の末裔であった。ミケランジェロは己の血筋に対する誇りを生涯捨てなかったが,その一方では現実に経済力をもたぬ父親の執拗な金銭的要求に悩まされつづけた。こうした実人生上の苦悩や,彼の制作意欲をつねに阻害し続けたパトロンたちの意志との衝突などのさまざまな葛藤を,休むことのない制作と,宗教上の思索とによって昇華し,一個人としては悩みに満ちた,芸術家としては実り多い生涯を送った。
1488年13歳のときに,当時フィレンツェ最大の工房の一つであったギルランダイオの工房の徒弟となるが,絵画を中心的活動としていたこの工房に飽き足らなかったためか,まもなくそこを出たらしい。このあと彼は,ロレンツォ・デ・メディチが若い芸術家の教育のために古代美術品を集めていた,サン・マルコ近くのメディチ家の庭園で,彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニBertoldo di Giovanniの指導を受けたといわれるが,この庭園の教育的機能の実情は明らかではない。いずれにせよこのころ,ロレンツォの庇護を受けて大理石彫刻家としての第一歩を踏み出すとともに,ロレンツォの邸館でのフィチーノやポリツィアーノなどの人文主義者や文学者との交友を通じて,新プラトン主義の洗礼を受けたのであった。また当時,おそらくロレンツォのために,古代ローマの浮彫の様式に倣って激しい動感に満ちた高浮彫《ケンタウロスの戦》を制作している。94年短期間ボローニャに滞在した後,96年にはローマに行き,《バッコス》および《ピエタ》の大作彫刻を仕上げる。前者は若いミケランジェロの完璧な技術と解剖学的知識を示しており,後者は盛期ルネサンスの古典主義彫刻の代表的作品である。1501年フィレンツェに帰還し,04年には共和国の理想を託した巨大な《ダビデ》を完成させ,また同年にはパラッツォ・ベッキオ(市庁舎)大広間にレオナルド・ダ・ビンチと競作で《カッシナの戦》壁画制作を依頼される。この壁画は,何点かの部分素描と実物大下絵(現存せず)のほかにはついに完成に至らなかったが,それらの下絵はラファエロなど次代の画家たちの裸体画の手本となった。一方,ミケランジェロの唯一のタブローである《聖家族》(別名《トンド・ドーニ》)もこの時代の作と思われる。
05年,教皇ユリウス2世の招きでローマに赴き,40体以上の彫刻と建築的モティーフの複合体である教皇の墓廟の制作を命ぜられるが,翌年には早くも教皇との間に不和が生じ,仕事は中断する。教皇は08年システィナ礼拝堂天井画制作を彼に命じ,彫刻家をもって自認するミケランジェロは,不承不承ながらも,12年に《創世記》諸場面とその周辺の多数の画面をほとんど独力で描き上げる。この天井画の特質は,第1には無数の人体の彫塑的表現効果であり,第2にはその新プラトン主義的な聖書解釈であろう。13年にはユリウス2世が没し,教皇墓廟の計画案は教皇の相続者たちの意思によって,ミケランジェロの意図に反して何回も縮小され,45年に最終的に制作が停止されたとき,彼はこのモニュメントのために《モーセ》《レア》《ラケル》,そして2体の《奴隷》を仕上げていたにすぎなかった。だがこれらの像は,堂々たる肉体表現に深く激しい精神をこめた,ルネサンス彫刻の頂点を示す作品となっている。20年,フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内メディチ礼拝堂に同家の墓所建立の依頼を受け,24年から10年間,建築と彫刻の複合体である2基の墓碑の制作に携わる。新プラトン主義の世界観に形を与えたとされるこれらの墓碑は未完に終わったが,それを構成するロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチの像,その下に横たわる〈朝〉〈夕〉〈昼〉〈夜〉の4寓意像および聖母子像が制作された。これらの像は,それぞれ端正な形態のうちに深く沈潜する気分を表しており,晩年の彫刻の,苦悩に満ちた様式を暗示している。
34年,フィレンツェから最終的にローマに移り住み,残る30年の生涯を教皇庁関係の仕事に費やす。35年新教皇パウルス3世は彼にシスティナ礼拝堂祭壇側の壁に《最後の審判》の壁画制作を命じ,老齢にさしかかっていたにもかかわらず,41年彼は独力でこの大画面を完成した。この作品はそれまでの絵解き的な《最後の審判》図とは異なり,正義の精神が骨肉を備えたごときたくましいイエス・キリストが,雷を投げるゼウスを思わせる激しい身ぶりで審判を下し,そのまわりには人間的苦悩をたたえた悪人たちや威厳を備えた善人たちが,バロック美術を予告する激しく旋回する構図と強烈な明暗によって描き出されている。《最後の審判》制作中のミケランジェロは,熱心なキリスト教徒で詩もよくした貴婦人ビットリア・コロンナVittoria Colonnaとの知的交友によって寂寥を慰められ,この愛に触発された詩を残している。ビットリアが47年に没して彼はますます孤独になったが,教皇庁の仕事はひきもきらず,老いた彼を休息させることはなかった。晩年の作品としては,バチカン宮殿パオリナ礼拝堂の《パウロの改宗》および《ペテロの磔刑》の壁画(1550)や,3体の未完の《ピエタ》(フィレンツェ大聖堂の《ピエタ》,パレストリーナの《ピエタ》,ロンダニーニの《ピエタ》)などがある。これらの像においては,長い制作活動と人生の闘争に疲れた老芸術家の苦悩と,そして彼がわずかに宗教に見いだしえた安らぎとが感じとれる。彫刻家,画家としてのミケランジェロは,一言で述べるならば,完璧な技巧と解剖学的正確さを備えた古典的な人体表現と,キリスト教的精神性との結合に成功し,その意味で初期ルネサンス時代からの芸術上の理想の達成者であったといえよう。
建築の代表作としては,サン・ロレンツォ教会付属図書館入口の間の設計(1523-25),ローマのカンピドリオの丘の広場の整備(1536設計),サン・ピエトロ大聖堂の円蓋その他の計画案(1546)などがある。建築において彼は,個々のモティーフを彫塑的に扱い,古典主義建築に自由な発展の可能性を与えることによってマニエリスム建築への道を開いた。
執筆者:鈴木 杜幾子
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1475~1564
イタリア盛期ルネサンスの彫刻家,建築家,画家,詩人。フィレンツェ近郊に生まれ,ローマで没。画家ギルランダイオの工房に入ったのち,15歳よりメディチ家の保護を受けて,古代彫刻およびドナテッロの作風を学んだ。以降,フィレンツェとローマを中心に精力的な活動を展開。1496年にヴァチカンの「ピエタ」,1504年に「ダヴィデ」像によって彫刻家としての名声を確立した。特に1508~12年に完成された教皇ユリウス2世の命によるシスティナ礼拝堂天井画は,盛期絵画の金字塔となる。人体の表現性を徹底的に追及した長い生涯の間に,その様式は調和と均衡の古典主義的理想から逸脱し,緊張感みなぎる動的な空間性と高度な内面性,精神性の表出によって,マニエリスムおよびバロック様式への道を開いた。代表作はほかにシスティナ礼拝堂の壁画「最後の審判」「メディチ家墓廟」など。
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…レオナルド・ダ・ビンチの《白貂を抱く婦人の肖像》のように,誇り高い白貂の性質によってモデルの〈純潔〉をたたえるなど,肖像画の中にモデルの理想とする徳性を寓意化することも少なくなかった。ミケランジェロによるメディチ家の2君主の墓廟の構想には,下部から上部にかけて冥界,地上世界が,また〈旧の四つの時〉〈四季〉〈人生の四段階〉などの時のアレゴリーがあるといわれる。 マニエリスム(1530‐90ころ)は,表現形式の完成よりは内的イデアの世界を重視した時期で,まさしく〈アレゴリーの勝利〉と呼称してよいだろう。…
…しかし,16世紀に入るとこの均衡は再び崩れ,芸術は,より新しい主観主義へと傾く。ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現したが,16世紀とともに危機に向かうイタリアの世界観を表現し,新たな象徴主義へと向かった。システィナ礼拝堂の《最後の審判》はその危機の表現である。…
…レオナルド・ダ・ビンチの創案になるという,互いにからまりあって上昇する二重らせんの階段も現れたが,しかし,まだ建築の内部空間とは切り離された孤立した部分として扱われており,外部階段の場合のような空間の結節点となることは少なかった。そうした中では,ミケランジェロの設計になるラウレンツィア図書館の階段は,外部階段のもつ儀式的性格を大胆に建築内部にもち込み,同時に空間のはげしい動きを表現した希有な例である。バロックの建築家たちは,こうしたミケランジェロの手法をさらにおし進め,複雑な曲線的要素を取り込み巧みな透視図法的効果を加えた。…
…ローマ帝国崩壊後は廃墟となり,中世以来ローマ市会が境内のタブラリウム跡地に居を占める。16世紀に入ってミケランジェロの設計により,市会議事堂と公証人役場,そしてフォルム・ロマヌムなどからの出土品を収める博物館の三つの建物が広場をとり囲むかたちができ上がり,広場の中央には,それまでラテラノ広場に置かれていたローマ時代(2世紀)作のマルクス・アウレリウス帝騎馬像が据えられた。この広場には古代と違って西側から階段で登ってゆくようになっており,ふりかえるとバチカンが遠望できるようにつくられている。…
…たとえばヨーロッパ中世には,聖遺物箱の偽作が多く,ルネサンス期には古典古代の作品が偽造され,あるいはやや時代が下ると当代の作品の偽作があらわれている。たとえば,バザーリの伝えるところによれば,ミケランジェロは《眠るキューピッド》を彫刻し,これに古代色を付し地中に埋め,それを再発見したのちサン・ジョルジョ枢機卿に売却している。また,教皇クレメンス7世所蔵のラファエロ作の《レオ10世像》をフェデリコ・ゴンツァーガが所望したとき,教皇はこの作品を手放さずにおくため,アンドレア・デル・サルトにコピー制作を依頼して,それを代りに贈っている。…
…この影響は上述した西ヨーロッパの諸例にも散見するが,イタリアに著しく,ジョットのパドバの壁画でも,基本的には西ヨーロッパ的であるが,その影響がうかがわれる。イタリアではダンテの《神曲》などの反映を示して,しだいによみがえった人々や地獄,天国の場面を豊富にし,また現実感を加え,ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の壁画に,中世的な階段構図をやめ,審判者らを中心に,左下から上り,右下に下る旋回構図をとる11群の人物大群の圧倒的表現力をもって,この主題を近代化している。【吉川 逸治】。…
…創建時の旧聖堂は使徒ペテロの墓の上に位置する5廊のバシリカ式教会堂であったが,老朽化したため,15世紀の教皇ニコラウス5世(在位1447‐55)が全面的改修に着手した。一流の建築家が参加した新大聖堂の建設はイタリア・ルネサンス最大の建築事業で,とくにブラマンテとミケランジェロの果たした役割は大きい。ブラマンテは,教皇ユリウス2世の依頼で,四隅に塔,中央に半球単殻ドームをもつギリシア十字形平面の設計案を用意し,その没後はラファエロ,A.daサンガロ(イル・ジョバネ)が建設主任となった。…
…内陣と信者席とがついたてによって仕切られており,左側壁にはモーセの生涯,右にはキリストの生涯,その上には歴代教皇の肖像が15世紀末フィレンツェ派の画家(ペルジーノ,ギルランダイオ,ボッティチェリなど)によって描かれた。1508‐12年,ユリウス2世の命によってミケランジェロが旧約聖書の《創世記》から,天地創造より人間の堕落までの主題を天井に9場面に描き,さらに旧約の預言者などを描いて,両側壁の2主題と総合されてキリスト教の全史を物語る空間となった。終りに35‐41年クレメンス7世とパウルス3世の命でミケランジェロが祭壇座に《最後の審判》を制作し,同礼拝堂はルネサンスからマニエリスムにいたる時期の,もっとも重要な宗教的,芸術的モニュメントとなった。…
…このように,レオナルド・ダ・ビンチは,空間の中の物体をとらえるものは線ではなく,明暗の現象であることを主張するとともに,陰影の中に,目に見えざるもの(精神)が喚起されるという考えを述べている。 ミケランジェロは初期においては,フィレンツェ派の伝統的な線とハッチング(線影)による素描を試みていたが,後期には明確な線をもたない喚起力に富んだ明暗様式の素描に移行した。彼は鉛筆による素描をよしとしたが,それは,〈詩〉を描く素材と同一であるところから,芸術が技術的作物ではなく,精神から直接法のようにあふれる霊感によるものだという思想から出ている。…
…芸術作品に関して,意識的な〈未完〉の状態のままに置くことによって,独自の芸術的効果をあげる技法について用いられる。起源はミケランジェロにあり,彼の1520年代以降の作品(サン・ロレンツォのメディチ家廟の〈昼〉,ユリウス2世廟のための〈囚人たち〉など)において,完璧な仕上げにまで至ることなく,粗彫りのままに置かれる作品のもつ精神的効果に対して,同時代人がミケランジェロの〈ノン・フィニート〉と呼んだ。ロダンはミケランジェロ以後もっともよくこの技法を用いた芸術家である。…
…イタリアでは15世紀以降作例が見られるようになり,〈ピエタ〉(〈哀れみ〉の意)と名づけられた。ミケランジェロの《バチカンのピエタ》(1500ころ)は伝統的な図像にのっとりながら,若く美しい聖母と理想化された肉体をもつキリストによって,この主題にまったく新たな表現を与えている。しかし晩年の《ロンダニーニのピエタ》(1564ころ。…
…A.パラディオの《建築四書》に示された建物寸法は,すべてこうしたルネサンス的な比例によって与えられたものであった。しかしこの間,16世紀のマニエリスムの到来とともに,こうした静的な比例観に対しては批判が加えられるようになり,ミケランジェロにあっては,比例はもはや不変の美の規範ではなく,作家個人の手法に属するものとみなされるようになっていた。バロック,ロココを通じてこの傾向はさらに強まり,18世紀の新古典主義においても,一部でフリーメーソンにより象徴的比例の復活がみられたものの,ロマンティックな超越的壮大さや不規則な美を求める傾向に押され,再び建築理論の中心的位置を占めるには至らず,近代の合理主義は,宇宙観とのアナロジーによる古典的な比例の伝統を完全に絶ち切ってしまう。…
…彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。 しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。…
…中世では新たな説明原理として占星術が加わり,たとえばアルナルドゥス・デ・ウィラノウァは,火星の色と熱が胆汁の色と熱に近いところから,メランコリーの原因がこの惑星にあると考えたが,土星に関係があるという説も根強かった。 メランコリーがしかし歴史の脚光をあびるのはルネサンス期に入ってからで,たとえばドイツの画家デューラーは1514年に有翼の女性の沈思の姿をかりて銅版画《メレンコリア・I》を描き,同時代のミケランジェロはメディチ家の廟を《ペンセローソ(沈思の人)》で飾り,1世紀後のミルトンも同名の詩をつくってメランコリーを賛美する。さらに,1621年に出た牧師R.バートン《メランコリーの解剖学(憂鬱の解剖)》は当時のベストセラーの一つだったと伝えられる。…
…
[フィレンツェ帰還]
したがって,99年スフォルツァの没落によってフィレンツェにもどった直後,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇用の《聖母子と聖アンナ》のカルトン(下図)は,このようなミラノでのレオナルドの芸術をフィレンツェにはじめて知らせた事件として,バザーリが記録するものとなった。ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,多くのトスカナの画家が,レオナルドの芸術のもつ新しい特質から霊感を受けた。1502年の10ヵ月間,チェーザレ・ボルジアの軍事上の技術者として教皇領の各地を回り,運河開削のプランニングや都市計画等を行った。…
※「ミケランジェロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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