デジタル大辞泉 「シュレーゲル」の意味・読み・例文・類語
シュレーゲル(Schlegel)
(Friedrich von~)[1772~1829]ドイツの批評家・哲学者・言語学者。の弟。初期ロマン主義の理論的指導者。また、サンスクリットの比較言語学的研究でも知られる。論文「インド人の言語と知恵」、小説「ルチンデ」。
兄ウィルヘルムAugust Wilhelm von Schlegel(1767―1845)、弟フリードリヒFriedrich von Schlegel(1772―1829)ともにドイツ初期ロマン派を代表する文学者。ハノーバーの由緒ある牧師の家に生まれる。兄ウィルヘルムはゲッティンゲン大学で神学、古典文献学を学ぶかたわら、詩人ビュルガーに師事し、早くから文才を発揮、1794年、シラー主宰の『詩神年鑑』および『ホーレン』誌や、『一般文学新聞』などに寄稿。有名なシェークスピアの翻訳もこのころに始まる。一方、弟フリードリヒは16歳で商家の徒弟となったが、半年後勉学を志し、ゲッティンゲン、ライプツィヒの大学で法律、古典文献学を修め、哲学や近代文学にも親しんだ。98年、兄と初期ロマン派の機関誌『アテネーウム』を創刊、ノバーリス、ティークなどとともに、宇宙の無限の充溢(じゅういつ)と全き統一への愛と憧憬(しょうけい)のポエジーとしてのロマン主義文学を鼓吹した。未完の小説『ルチンデ』(1799)はその実践である。
1800年、機関誌の廃刊によりグループも解体。ウィルヘルムはまずベルリンで文学に関する重要な講義(1801~04)を行ったのち、スタール夫人に同伴してヨーロッパ諸国を歴訪、08年にはウィーンで演劇について講義、ドイツ・ロマン主義の伝播(でんぱ)に大いに貢献。19年以後はボン大学の文学の教授を務めた。
フリードリヒは1801年からパリでサンスクリット語の学習と、中世精神の理解に努め、観念論からキリスト教哲学への道をたどり、文芸誌『ヨーロッパ』の刊行(1803~05)後、ケルンで妻ドロテーアとカトリックに改宗(1808)、ウィーンに移住。以後20年有余、当初しばらくオーストリア政府の官職についたほかは、文学(1812)、哲学(1827)、歴史(1828)、言語(1828~29)の講義、雑誌『ドイチェス・ムゼウム』(1812~13)と『コンコルディア』(1820~23)の刊行などにより、時代の精神的更新に尽くした。なお、豊かな受容の才に恵まれたウィルヘルムが同時代の重要な証人であるのに対し、独創的な思索力に富むフリードリヒは、文芸理論家としてのみならず、カトリック的実存主義思想の先駆として、現代にも大きな意義を有する。
[富田武正]
『A・W・シュレーゲル著、戸室博訳「劇芸術・文学に関する講義1~5」(早稲田大学独文研究室編『Studium』所収・1969)』▽『A・W・シュレーゲル著、登張正実訳「ゲーテの〈ヘルマンとドロテア〉」(『世界批評大系1』所収・1974・筑摩書房)』▽『F・シュレーゲル著、江沢譲治訳『ルチンデ』(春陽文庫)』▽『F・シュレーゲル著、飯田安訳『ロマン的人間』(1936・第一書房)』▽『F・シュレーゲル著、野田倬訳『ロマン主義文学論』(1972・学芸書林)』
ドイツ・ロマン派の創始者。ハノーファーに生まれる。卓越した文芸批評家,文学史家,哲学者であり,その批評の方法論によって近代の解釈学の始祖ともいわれる。古典文学の研究から出発し,ドレスデン大学在学中(1794-96)ギリシア文学に関する一連の論文を書く。ギリシア文学の客観性・自然性を文学の規範とし,主観的・悟性的な近代文学に対置したが,しだいに近代文学に内在する哲学的精神に注目,近代の悟性的思惟の成果であるフィヒテの観念論,スピノザ哲学における神に対する知的愛などを根拠にして,ロマン主義文学論を構築。その間,ノバーリスと知り合い,共にフィヒテ研究に関する思索を交換し合う。自我の反省を無限にくり返しつつ,〈根源的自我〉〈無限なるもの〉〈宇宙〉〈神〉に接近してゆく精神の運動を表現するものこそ,ロマン主義文学にほかならなかった。〈自己否定と自己創造の絶えざる交替〉(ロマン主義的イロニー)を通じて,詩人は自我の限界を超克し〈無限なるもの〉を象徴的に表現する。ポエジーに対するこのようなイロニーの介入は,現代文学,たとえばトーマス・マンやムージルらの表現方法にも影響を与えている。兄アウグスト・ウィルヘルム・シュレーゲルと共に編集・発行したロマン派の機関誌《アテネーウム》に掲載した彼の評論,断章,論文は,ロマン主義文学理論の包括的な表出であり,小説《ルチンデLucinde》(1799)はその実験的な試みであった。《ルチンデ》は既存の小説(ロマン)形式を解体させるアラベスク的様式によって,現代のアンチ・ロマンの先駆的作品となった。シュライエルマハー,ノバーリス,ティーク,シェリングらと共に形成したベルリンおよびイェーナにおける初期ロマン派が解散した(1801)後,パリに滞在し,サンスクリットの研究を通じてヨーロッパにおける東洋学の基礎を築き,続くケルン時代(1804-08),彼は既存のあらゆる哲学体系を徹底的に批評し,人間の内体験全体から出発する独自の哲学を志した。知識と信仰の統一をめざすこの時期のシュレーゲルの思索には,すでに晩年の〈生命の哲学〉の萌芽がみられる。1808年妻ドロテーアと共にカトリックに改宗,ウィーンに移り,メッテルニヒのもとで政治に関与する一方,哲学,神学,文学の領域で精力的に活躍した。意識の深部から生の実体を把握しようとする彼の晩年のキリスト教的実存哲学は,19世紀,20世紀の実存哲学に隠然たる影響を与えた。
執筆者:中井 千之
ドイツの劇作家。今日では忘れ去られているが,その作品は,1740年代から70年代にかけては,ドイツの劇場の代表的なレパートリーであった。代表作は,デンマーク王クヌット(カヌート)と野心家ウルフォの対立を描いた悲劇《カヌートCanut》(1746)である。思想的には啓蒙主義を基盤にしながら,ゴットシェートとは違って演劇の娯楽性を強調し,ドイツ独自の新しい演劇の確立を主張した。
執筆者:岩村 行雄
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…その異様な風体からナザレ派とあだ名される。彼らの精神的・理論的基盤として,ワッケンローダーWilhelm Heinrich Wackenroder(1773‐98)の《芸術を愛する修道僧の心情吐露》(1797)や,芸術の目的を宗教的象徴に置き,15~16世紀前半のイタリア,フランドル,ドイツのいわゆるプリミティブ絵画の模倣を勧めカトリシズムへの回帰を説くF.シュレーゲルの《パリ・オランダ絵画通信》(1803‐05)が挙げられる。彼らはペルジーノ,ラファエロ,デューラーらに範を仰ぎ,聖書や中世文芸に題材を求めた。…
…そのことは統合者としての作家の立場から生まれる〈ロマン主義的イロニー〉という技法にもあらわれている。この時代には,シュレーゲル兄弟(兄=A.W.シュレーゲル,弟=F.シュレーゲル)がシェークスピアその他の翻訳や《劇芸術,劇文学講義》(1809‐11)を著し,それによってロマン派演劇に指導的な役割を果たした。近代芸術としてのロマン的な芸術は,内的分裂から出発しており,したがって統合は無限の追究となるしかなく,結局は〈解体〉をもたらす。…
※「シュレーゲル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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