文学理論(読み)ぶんがくりろん(その他表記)literary theory

改訂新版 世界大百科事典 「文学理論」の意味・わかりやすい解説

文学理論 (ぶんがくりろん)
literary theory

文芸批評と呼ぶことのできるものは,アリストテレスの《詩学》やホラティウスの《詩論》から今日のいわゆる文芸批評にいたるまで,さまざまのかたちで存在する。その文芸批評が目的とするのは,普通には,文学作品かその作者にかかわりのある諸問題について語ることである。しかも西欧諸国においては,とくに19世紀以降,文芸批評そのものが文学の中のひとつの分野として確立されるにいたった。ところが,とくに1970年代になると,そのような文芸批評の中から,従来の文芸批評とは性格の異なるものが現れはじめて,現在ではひとつの特徴的な分野をなすまでになっている。それが文学理論と呼ばれる分野である。

 文学理論が目的とするのは,個々の作品や作者について語ることよりも,むしろ文芸批評全般を問題としてとりあげることである。つまり文芸批評と作品や作者の関係について語ったり,文芸批評そのものの内的な論理や構造について語ったりするのである。したがって文学理論とは,文芸批評について語る批評であると言うこともできるだろう。そのような意味での文学理論は,文芸批評の構造や機能を明らかにしようとして,いわゆる文学の枠の中にとどまることをせず,人文科学や社会科学の各分野との積極的な比較に向かうことになる。結果として,それは,文芸批評そのものを人文科学や社会科学の中に位置づけようとすることになる。またそのために,他の学問分野の成果や方法を進んでとりいれる姿勢をもつことになる。文芸批評のいわば自己反省として始まったものが,いまや,社会の中にひとつの制度として確立されている文学にかかわりのある問題全般を対象とするものになってきたわけである。言うまでもなく,そこには文芸批評としての一面も残っているけれども,その一方では,従来の文芸批評のイメージから大きくはずれる新しい面も現れてきているのである。

西欧の諸国において,文学が哲学や歴史などの他分野とは異なる独自の分野として確立されたのは,おおむね18世紀の後半であると考えられている。つまり,今日われわれが普通に使っている〈文学〉という概念は,およそ2世紀ほどの歴史しかもっていないということである。しかし,ひとたび独自の分野として確立された文学は,19世紀を通じてみずからの純粋化に向かい,世紀の末には〈芸術のための芸術〉を目標として掲げる審美主義の文学さえ生みだしてしまうことになる。当然ながら,文芸批評の側にもそれに並行する動きがみられた。イギリスのW.H.ペーターの印象主義批評などが,その典型的な例である。

 そのような文芸批評の内部にひそんでいた問題を最も明確なかたちで提示したのは,おそらく,1910年代に新しい文芸批評の運動を起こしたロシア・フォルマリズムに属する人々であろう。とりわけ言語学者のR.ヤコブソンは,文学の文学性は何かという問いをたて,哲学や歴史学や心理学とは違う文学の独自性をつきとめようとした。それは〈芸術のための芸術〉のひとつとしての文学を正当化するための根拠を,理論的に明らかにしようとする試みであったと考えられる。この問題に対して,文芸批評家のV.B.シクロフスキーは《散文の理論》(1925)の中で,〈方法としての芸術〉という考え方を提唱した。彼によれば,文学を文学たらしめているのは,作品の中に表現されている思想内容ではなくて,そこで使われている特徴的な手法である。文学は〈日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する〉方法を駆使して,〈対象の独特な知覚を創造する〉ものである。彼はこの方法を〈異化〉あるいは〈非日常化〉と呼んだ。

 ロシア・フォルマリズムが革命後の社会において活動を制限されるにいたったとき,それを継承したのが1930年代のチェコの構造美学であった。この運動の中心となったムカジョフスキーJan Mukařovskýは〈異化〉の問題を,〈前景化〉と〈背景化〉の弁証法としてとらえなおした。彼によれば,文学の言語は,コミュニケーションを第一の目的とする日常の言語を背景として成り立つものであり,コミュニケーションの機能よりも媒体としての言語そのものの機能に注意をひきつけようとするものなのである。シクロフスキーおよびムカジョフスキーの考え方は,文学の言語の特性を説明するものとして,今日でもその有効性を失ってはいないが,同時に大きな問題もはらんでいる。なぜならば,文学の言語の特性を〈異化〉または〈現前化〉に求めるとすると,そうした手法が効力をもつためには,それらの手法を含まない言語がその足場として必要になってくるからである。つまり文学の言語は,それが成り立つための必須の足場として,文学以外の言語を必要とすることになる。それはある意味では,文学を文学たらしめているのは,文学ではないものであるということにほかなるまい。このようにして,文学の文学性の根拠をつきとめようとする試みは,逆説的に,文学と文学でないものの関係を問題とせざるをえない事態にたちいたるのである。

文学と文学でないものとの関係のあり方を問うということになれば,当然ながら,マルクス主義の側からの文学研究もそれをなしうるもののひとつに数えられる。しかし,今日言われるような意味での文学理論につながる方向にこの問題を追求しはじめたのは,マルクス主義的な文学研究ではなかった。それを始めたのは,むしろ1960年代から目覚ましい仕事をしたフランスの構造主義であった。とりわけ人類学者のC.レビ・ストロースは,前記のヤコブソンやスイスの言語学者F.deソシュールから多くを吸収して,新しいかたちの構造人類学を開拓する。彼は言語学のモデルを利用して,神話や未開社会の親族構造を分析する。そこにあるのは,詩や神話はいうにおよばず,親族関係のような社会組織にしても,なんらかのかたちの言語としてとらえることができるという視点である。さまざまの社会現象を考えるさいの基本に言語学のモデルをおくというのは,フランスの構造主義の一般的な特色としていいだろう。精神分析学のJ.ラカンになると,フロイトを徹底的に読みなおす作業を通して,〈無意識は言語として構造化されている〉という立場をとる。

 ところで,フランスの構造主義が人間にかかわりのあるすべての現象を言語学をモデルにして理解しようとしたという場合,注意しなければならないのは,そのさいの言語が特定のイメージをもっていることであろう。言語はなによりもまず記号のシステムと考えられるのである。そしてこのシステムにおいては,まず個々の要素が存在し,それが集合してひとつのシステムを構成すると考えるのではなく,むしろシステムの中においてこそ各要素の位置と機能が決まるのだとする。したがって,このモデルに基づいて個人と社会の関係を考えるとすると,それぞれの個性をもつ個人が集まって社会をつくるのではなく,人間はすでにシステムとしての性格をもつ社会の中に生まれおち,そこで位置と機能を与えられて個人になるのだという見方になる。個人はひとつの確固不動の実体であるよりも,むしろ機能であり,諸関係の束であることになる。フランスの構造主義において,ルネサンス以来の実体としての人間という考え方が崩れ,関係あるいは機能としての人間という考え方がとくに強くおしだされてくるのである。

 文芸批評も,当然ながら,その影響をうけた。その結果としてまず生じたのは,従来のように作者と作品を中心にすえる文芸批評の根拠が疑わしくなってきたということである。つまり,個性的な自我を独創的に表現するのが作者であるというロマン主義以来の前提は,もはやすんなりとは受け入れがたいものになる。作品にしても,従来のように,自己充足的な実体としてそこにあるものとは考えにくくなる。文芸批評は,その二つの軸である作者と作品を自明の所与とみなすことができなくなり,大きな変貌を強いられることになった。そしてその変貌の過程において登場してくるのが,文学理論と呼ばれるものなのである。

その文学理論を支える特徴的な発想の中心にあるのが,テキストについての新しい考え方である。端的に言えば,これまでの文芸批評がその対象としての作者と作品を失ったあとに,文学理論の基礎として発見されたのが〈テキスト〉であるということになるだろう。それではこのテキストとはいったい何であるか。

 この問題の解明に最も大きな貢献をしたと思われるのは,フランスの構造主義ならびにそれ以降の動きのなかで仕事をしたR.バルトとクリステバJulia Kristevaである。彼らの考えによれば,テキストには二つの次元がある。ひとつは,印刷された書物とか論文というかたちをとる可視の物としてのテキストであり,もうひとつはそれを生みだす作用とか場としてのテキストである。従来の文芸批評においては,この作用とか場は,作者の生活や時代背景に属するものとされていたが,彼らはそのようには考えない。むしろ,可視のテキストを生みだす作用の場自体は,主体としての作者が絶対権を振るう場ではないと考える。そこで起こるのは,すでに存在する諸種のテキストが織り合わされてゆく運動であるとされる。バルトの《テキストの理論》(1973)によれば,〈あらゆるテキストは相互関連テキストである。他のテキストが,そのテキストのさまざまなレベルに,多かれ少なかれ識別しうるかたちで存在するのだ。それらは,先行する文化のテキストや周囲の文化のテキストである。あらゆるテキストは過去からの引用の新たな織物である〉。重要なのは,この意味での相互関連性をもつテキストは,可視の物としてのテキストと違って,けっして物理的に固定されてはおらず,絶えず流動しているとされていることである。そのために,この流動状態に関与する読者は,みずからもそこに参入して意味をつくりだし,テキストをつくりだすことを強いられることになる。読者は読者であると同時に創造者にもなってゆく。従来の意味での両者の区別は消えてしまう。このようなかたちのテキスト論をふまえる文学理論においては,理論家はただ単に反省的研究をなすだけではなく,創造の場にも参与することになるのである。逆説的に響くけれども,これまでの文芸批評よりもはるかに理論傾斜が強いとされる文学理論において,理論家は創造者としての資格も併せもつことになるのである。少なくとも理屈のうえではそうなる。

 いずれにしても,フランスの構造主義ならびにその影響をうけた思想は,人間の活動のすべてを広い意味での言語活動ととらえ,すべての芸術,宗教,政治などの活動はなんらかのテキストを生みだすものであるとする。そのような状況においては,文学理論がテキストを媒介にしてすべての文化活動の問題をとりあげることになるのも,さほど奇異なことではない。ここまでくれば,従来の意味での文芸批評と最近の文学理論の性格の違いはさらにはっきりしてくるであろう。

 フランスで提唱されるようになったテキスト論との関係で興味深いのが,主として1970年代以降のドイツとアメリカにおいて活発に議論されるようになった読者論である。これは,出版制度とか書物の受容のされ方に的をしぼった,いわゆる社会学的な方向からのものではない。そこで問題にされているのは,読むという行為そのものの特性をどう考えるかということである。これまでの文芸批評においては,テキストを読むとは作者がそのテキストに与えた意味を正しく読みとることであると説明されることが多かった。そして正しく読みとるための技術がさまざまにくふうされてきた。本文校訂とか注釈もその一環である。その際にほぼ必ず前提とされていたのは,読者は作者が与えた意味を読みとる二次的な存在であるとする,いわば作者中心の読みの理論であった。これに対して,イーザーWolfgang Iserなどの提唱する新しい読みの理論によれば,読者がまず与えられるのは活字であり,物理的な物としての作品でしかない。それを鑑賞し批評するに値する文学作品に変えてゆくのは,それを読む読者の行為である。言い換えれば,物としての作品と読者による読みの行為が相互作用を起こすところに成立するのが,十全の意味での文学作品だということになる。したがって,文学作品の意味なるものも,作品の中に露呈しているのではなくて,この相互行為の中で生成し,現実化してくるものであるとされる。

 しかし,そのようにして生成してくる意味は,すべて読者の側が生みだすものなのだろうか。この疑問に対して,読者の数だけ異なった意味が生成してくるのだと答えるとすれば,読者の自由はきわめて大きなものになるだろう。だがその場合には,逆に,それらの乱立する解釈のうちのどれがより妥当であり,どれがより妥当でないかを決める規準が失われてしまう。そこから,作者が作品にこめる〈意味〉はそれなりに安定したものであり,読者の読みに応じて変化するのは読者が作品に付与する〈意義〉であるといった折衷的な考え方も出てくるのである。しかし,この問題に対していかなる態度をとるにしても,このような創造的な読みの理論が,従来の作者中心の考え方と比べて,読者の創造的な役割を重視するものであることは否定できない。しかも,フランス系のテキスト論が人間のすべての文化活動にあてはまるものであったのと同じように,この新しい読者論が,文学作品に対してだけではなく,すべての書かれたもの(テキスト)にもあてはまることは容易にみてとれる。もともとこの理論は,ドイツ系の現象学や解釈学をふまえて考えだされたものであったが,その適用範囲の広さゆえに,文学理論と結びつきうるのである。

 それでは,以上のような文学理論はどのような成果を生みだしたのか。その例のひとつとしてあげることができるのは,フランスの哲学者J.デリダの《グラマトロジーについて》(1967)以下の仕事であろう。彼は西欧の人間の文化活動のうちにひそむ形而上学的な二元論を,きびしく批判する。あるいはデリダの影響下にあるアメリカの文学研究者たちであろう。彼らの手によって,文学の諸問題がその根源から問いなおされつつある。
物語
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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