翻訳|Leipzig
ドイツ東部,ザクセン州の都市。人口49万8491(2004)。ザーレ川の支流であるエルスターElster川とプライセPleisse川との合流点,年間平均気温8.7℃,559mmの年間降水量をもつ農耕地帯に位置し,地下に豊富な褐炭の鉱床もある。古い商工業者の町で,鉄道と高速道路でベルリン,ドレスデンなどと結ばれ,工業の密集地域となっている。春秋に国際見本市が開かれ,歴史的に由緒ある建物も多く,音楽など文化の薫り高く,15世紀初頭以来大学都市でもあった。
ゲルマン人の民族大移動後,スラブ人が防塞村落をつくっていたが,10世紀にドイツ人の東方植民が始まると,混住となり,ドイツ農民の村落も多く建設された。史料には1015年ウルプス・リプツィurbs Lipzi(〈菩提樹の町〉の意)の名が出ている。1165年ころ都市となり,1212年にはトマス教会も創設された。87年自治都市として市壁に囲まれ,その外側に前市Vorstadtもできたが,なお市壁の内外では農業も行われていた。旧市庁舎近くに都市貴族層が,その周辺には小商人・職人が住み,市民権を持たない平民層も農村から入って,春秋と新年とに市が開かれた。
14~15世紀には手工業者も増え,1466年には27のツンフトをもち,人口6000となる。1409年ライプチヒ大学の創設もあって1500年ころには印刷・製本工も現れ,ミュンツァーもこの大学に学び,19年のライプチヒ討論はルターの宗教改革を決定的にした。1485年以後ザクセン公領に含まれ,1539年宗教改革を受け入れた。宗教争乱の時代にも,西方へは銅,スズ,銀を輸出し,香料,タバコ,羊毛,絹などを輸入して再輸出し,商線はモスクワまで延びた。この15~16世紀にはトマス教会,大学,旧市庁舎などが増・改築された。しかしこの繁栄のかげで下層市民,乞食なども増え,1524年のドイツ農民戦争は近郊にも及び,市内でも騒擾が起こった。
三十年戦争のため2万人の人口が1648年には1万4000に減ったが,1753年には3万2000に達し,ザクセンではドレスデンと並んで経済の中心となった。七年戦争(1756-63)の戦禍にもかかわらず,いちはやく回復して繁栄を続け,街並みも一新され,文化を象徴する出版業も発展した。1693年すでにオペラハウスはできていたが,1700年音楽学校が創立され,23年バッハがトマス教会の聖歌隊指揮者になって以来,63年にはゲバントハウス管弦楽団の前身も生まれる。産業上も毛織物や絹織物,麻・綿織物,その他各部門でマニュファクチュアも盛んとなった。
フランス革命が勃発すると,1790年には市の内外で国民的な蜂起が始まり,96年までほとんど毎年職人や賃金労働者のストライキ,それに対する大量逮捕が続いた。1813年ライプチヒの戦はナポレオンから諸国民を解放し,ウィーン会議後も産業革命の波は進んだ。鉄道建設は36年から始まり,この市にも42年には駅舎が完成する。蒸気機関の普及によって,当時ドイツ最大の紡績工場や鉄の鋳造工場も建設され,出版業に加えて,機械制工業の中核,内陸交通の要となった。48年三月革命の過程で労働者は反革命に対し49年バリケード戦に参加し,多くの婦人たちも積極的に政治活動に立ち上がった。大ブルジョアジーは旧勢力と妥協して近代化を進め,印刷,繊維,金属,機械,建築に加えて,化学,電機,精密工業も生まれ,金融資本も出現し,ドイツ帝国の重要な工業都市となった。71年人口も10万7000となり,従来からの定期市もこの年から春秋2回の国際見本市となり,馬車軌道も市電に代わった。1909年に迎えた大学の500年祭もあって,帝国裁判所,新ゲバントハウス,大学図書館など新しい建物も多くできた。
三月革命のなかで生まれた労働者協会は,反革命のなかでも多くの政治的・文化的,ことに婦人協会などのサークルに支えられて成長し,ベーベル,W.リープクネヒトらのアイゼナハ派を形成する。69年ラサール派との合同によって後のドイツ社会民主党を成立させるが,70年普仏戦争をめぐって対立すると,反戦平和を主張した左派の拠点となる。78年社会主義者鎮圧法成立後も,ライプチヒの組織は非合法紙《社会民主主義者》1000部を維持し,90年の同法撤廃後,ここは労働運動・社会主義運動の中心となった。第1次大戦に祖国防衛を主張する社会民主党右派に反対する重要な拠点として,1918年のドイツ革命において,さらに20年にはカップ一揆粉砕に,ライプチヒは積極的役割を演じた。ナチスに対しても,33年国会放火事件の容疑者ディミトロフは,ライプチヒにあった帝国裁判所法廷で反ファシズム統一戦線を主張するなどして無罪を勝ち取った。
第2次大戦では,1945年4月アメリカ軍によって解放されたが,ナチス・ドイツの降伏後同年7月からソ連の占領下に入ってからも,壊滅的な戦禍による破壊からの再建に苦しみ,49年ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立後,計画的な社会主義建設のなかで,都市の復旧に努め,国際見本市をも復活させた。65年には市の800年祭を盛大に催し,大産業都市としてばかりでなく,音楽の都,学術研究の中心的大学都市,書籍の町として,歴史と伝統に生きる新しい社会主義国家東ドイツにおいてベルリンに次ぐ位置を占めた。
執筆者:進藤 牧郎
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