ジョリッティ
Giovanni Giolitti
生没年:1842-1928
イタリアの政治家。上級官吏から国会議員に転じ,1892年首相となる。だが銀行汚職に関与した疑いで93年末辞職に追いこまれ,しばらく野に下る。1901年ザナルデリ内閣の内相に起用され,次いで1903-05年,06-09年,11-14年と首相を務め,20世紀初頭のイタリアにジョリッティ時代を築く。ジョリッティ時代のイタリアは経済の高度成長期で,とりわけ北部の工業化が進み,ミラノ-トリノ-ジェノバを結ぶ工業三角地帯が形成された。これに伴い労働運動・社会主義運動が活発化したが,ジョリッティはこれを抑圧するのでなく,体制内に統合する政策をとった。労働争議に権力が介入することを避けて労使交渉のルールを確立するとともに,社会党を議会政治の場に引き入れて議会制民主主義の運営に意を注いだ。ジョリッティのもとでこのように経済成長と政治的デモクラシーが図られたが,この動きは地域的には北部に限られていて,南部ではこれまでどおりの大土地所有制に基づく社会構造が維持され,南部民衆の運動は厳しく弾圧された。北部と南部への異なった対応がジョリッティ政治の特徴で,この時期南部から大量の移民がアメリカへ向かった。またジョリッティの政策で目だったものに公益事業に対する国家管理の強化があり,鉄道・電話業務の国有化,生命保険の公社独占化などが行われた。外交面では独仏両国への等距離政策をとって,列強との友好保持に努めた。その一方で,アフリカ侵略の準備を進め,1911-12年トルコ支配下のトリポリタニアとキレナイカを奪い,両地にリビアの古称を復活させて植民地化した。この対トルコ戦争(イタリア・トルコ戦争)と並行して,内政では選挙権資格を大幅に広げる選挙法の改正を果たし,また13年の総選挙においては,左傾化した社会党に替えてカトリック勢力と提携する方針を打ち出し,ジェンティローニ協定を結んだ。14年首相を辞任,第1次大戦には中立を支持して,イタリアの参戦に消極的態度をとった。このため大戦中は出番がなかったが,大戦後のダンヌンツィオのフィウメ占領,あるいは社会主義,カトリック両勢力の政治的躍進などによる自由主義国家の危機状況のなかで,20年5月通算5度目の内閣を組織した。彼は有価証券記名制や相続税引上げなど,課税強化策によって国家財政の再建に努め,また労働者の工場占拠を収拾して社会主義の攻勢を抑えた。そしてユーゴスラビアとの間のラパロ条約でフィウメを独立自由市とすることを決め,これら懸案の問題を処理したあと議会政治の正常化に取り組んだ。そこで社会党と人民党の2大衆政党に対抗するためナショナル・ブロックを結成し,おりから台頭してきたファシズム運動をブロックに加えて21年5月の総選挙に臨んだが,これがファシズムに力を与え,予期しない形での自由主義国家の崩壊を招く結果となった。
執筆者:北原 敦
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ジョリッティ
じょりってぃ
Giovanni Giolitti
(1842―1928)
イタリアの政治家。1882年に政界に入り、1889年にはクリスピ内閣の蔵相となる。1892年に首相となるが、翌1893年にローマ銀行汚職事件に巻き込まれて辞任。しかし、1903~1905年、1906~1909年、1911~1914年に首相を務め、いわゆる「ジョリッティ時代」を現出した。この時代の内政の特徴は、北部イタリアの資本家と労働者間で提携を図りながら、労働者階級の状況を改善し、広範な工業化を進めたが、他方では南部の貧しい無防備な階層を切り捨てていったことである。また、選挙権拡大などによって、議会主義政治を確立し、自由主義国家から民主主義国家への移行を実現した。外交では、イタリア・トルコ戦争(1911~1912)でリビア征服に意欲を示したが、第一次世界大戦では中立の立場をとり、戦争ではなく交渉で「未回収地」の割譲を得ようと考えて野に下った。第五次内閣(1920~1922)で、労働者の工場占拠闘争を終息させ、ラパロ条約でユーゴスラビアとの関係を正常化した。しかし、大戦後の混乱のなかで、社会党の進出を阻止する目的から、ファシズム勢力の伸長を許す状況をつくった。
[藤澤房俊]
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ジョリッティ
Giolitti, Giovanni
[生]1842.10.27. ピエモンテ,モンドビー
[没]1928.7.17. ピエモンテ,カブール
イタリアの政治家。 1892~93,1903~05,06~09,11~13,20~21年の5度首相となり,1890年代から 20世紀初頭のイタリアに繁栄をもたらし,ジョリッティ時代を築いた。この間,経済的には工業化政策が推進され,政治的には選挙法の拡大による議会制の確立がはかられた。ジョリッティは,一方では社会党改良派と提携して改良主義的諸改革を実施し,他方ではカトリックと結んで農村の保守的基盤を確保し,この両者の均衡のうえに中道的自由主義政策を維持した。第1次世界大戦に際しては中立の利を説いたがいれられず野に下った。戦後首相に返り咲いたとき,社会主義運動の台頭に対抗するためファシズム運動と同盟を結ぶ政策をとったが,このことがファシズムの政権獲得という事態を招く大きな原因となった。
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ジョリッティ
Giovanni Giolitti
1842~1928
イタリアの政治家。ピエモンテの官僚出身。5度にわたり首相(在任1892~93,1903~05,06~09,11~13,20~21)を務める。20世紀初頭のイタリアはジョリッティ時代と呼ばれる。議会内に多数派を形成するために南部出身者に利益誘導を行って支持を得る一方,イタリア社会党との協調により労働運動の激化をおさえ,北イタリアの工業発展をめざした。第一次世界大戦に際してはイタリアの中立を主張。戦後は社会党の勢力拡大を阻止するためにファシストを利用し,結果的に彼らの政権参加に道を開いた。
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「ジョリッティ」の意味・わかりやすい解説
ジョリッティ
イタリアの政治家。自由主義者で,1892年から1921年の間,極右から極左に至る諸党派をあやつりつつ5回にわたり首相となった。北イタリアの工業化や参政権拡大を実現,いわゆるジョリッティ時代を築く一方,南部の民衆運動は弾圧した。第1次大戦では中立を主張。戦後は社会党の進出を押さえるためファシスタ党勢力と結んだが,一党独裁制出現には反対した。
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ジョリッティ
Giovanni Giolitti
1842〜1928
1892〜1921年にかけて5回首相をつとめたイタリアの政治家
北部の工業化を推進し,イタリア−トルコ戦争でリビアを植民地とするなど,イタリアの国力を強化した。第一次世界大戦後は,ファシズムに同調したが,やがて反対の立場に転じ,政界を引退した。
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世界大百科事典(旧版)内のジョリッティの言及
【イタリア】より
…侵略(1896)は失敗に終わり,また民衆の不満は1898年に全国暴動を呼び起こすなど,政府の行詰りは明らかとなった。
[ジョリッティ時代]
ここで登場したのが[ジョリッティ]で,20世紀初頭の約15年間をイタリア史ではジョリッティ時代とよんでいる。この期間は急速な工業成長が果たされた時期であるとともに,議会制民主主義の形成期とも評価されている。…
【イタリア・トルコ戦争】より
…イタリアはかねてよりリビア植民地化の機会をうかがい,外交的にも協商国との間でイギリスにはエジプト,フランスにはモロッコにおける権益を保障する代りに,自国のリビア領有についても了解を取りつけていた。1911年7月第2次[モロッコ事件]の勃発にともない,列強の目がそれに集中している最中,ナショナリスト,カトリック,ローマ銀行等の金融界や製鉄業界などによるイタリア国内での戦争推進キャンペーンを背景として,9月28日ジョリッティ政府は,24時間の回答期限つきの最後通達をトルコに送り,翌日宣戦布告した。イタリア軍はまたたく間にトブルク,トリポリ,ベンガジなどの沿岸諸都市を占領し,11月5日にはトリポリタニアとキレナイカの併合を宣言。…
【ジェンティローニ】より
…1909年教皇ピウス10世により全国的信者組織〈カトリック選挙連合〉会長に任命された。成人男子普通選挙が導入された1913年総選挙に際し,[G.ジョリッティ]の率いる与党自由党と宗教教育,離婚反対など7項目の承認を支持条件とする選挙協定を締結した。社会党の左傾化によりその支持を失ったジョリッティは,このカトリックの支持により安定多数の維持に成功した。…
※「ジョリッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」