スキピオ大(その他表記)Publius Cornelius Scipio Africanus Major

改訂新版 世界大百科事典 「スキピオ大」の意味・わかりやすい解説

スキピオ[大]
Publius Cornelius Scipio Africanus Major
生没年:前235ころ-前183

共和政中期ローマの政治家,将軍名門の出。父は前218年のコンスル(執政官)。グラックス兄弟の外祖父。第2ポエニ戦争をローマの勝利に導いた将軍。まずハンニバルに対してティキヌス河畔およびカンネーの戦で闘い,父の死後,前210年,若年にして,私人であるのにスペインにおける軍指揮権(プロコンスルの命令権)を与えられ,新戦術を採用して,前209年カルタゴ・ノウァを落とし,前208年ハスドルバルを破り,スペインのカルタゴ勢力を制圧した。その後,前205年のコンスルとしてアフリカ進撃を決意してシチリアに渡り,次いで前204年元老院の反対をおしきってアフリカに兵を進め,マシニッサと結んで,前202年ザマの戦でハンニバルを破り,第2ポエニ戦争を終結させた。前201年カルタゴとの平和条約を締結させた後,凱旋式を挙行し,〈アフリカヌス〉の尊称を得た。その後は,前199年ケンソル,元老院首席となってローマ政界の主導権をにぎり,弟スキピオ・アシアティクスLucius Cornelius Scipio Asiaticusの政治的・軍事的助言者として,シリアアンティオコス3世に対する遠征にも従軍した。しかし,その親ヘレニズム的な政策と独裁的な傾向に対する元老院保守派の反感も高まり,彼および弟に対する裁判にもちこまれ,弟の処刑後,前184年隠退し,翌年失意の中に世を去った。

 彼は軍事的・政治的手腕に優れ,神がかり的な性格をもち,アレクサンドロス大王の精神的後継者あるいはユピテル神の寵児と信じていた。政治的には,スペイン,アフリカ,東方ヘレニズム世界におけるローマの優位性を確立した点,軍政史・社会史上は,戦術の革新や私兵の採用などの点で,ローマの歴史に画期的な役割を果たした。しかし,独裁的な傾向は,元老院の伝統的な権威に触れるところもまた大きく,晩年は両者の間の深刻な対立を招いた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスキピオ大の言及

【イタリカ】より

…現在名はサンティポンセSantiponce。第2次ポエニ戦争(別称ハンニバル戦争)の過程で,カルタゴ軍をイリパの戦(前206)で大破したローマ軍の司令官大スキピオが,負傷した部下を住まわせるために創設した。これによってローマ軍は今日のアンダルシア南部を制圧し,まもなくカルタゴ人最後の拠点ガディル(現,カディス)を下した。…

【ザマの戦】より

…決戦は北アフリカ,現在のチュニジアのマクタルの近くのザマ・レギアZama Regiaで行われたとみられる。前202年春,ハンニバルの率いるカルタゴ軍が,大スキピオの率いるローマ軍と死闘の末,敗れた戦。兵力的には両者拮抗していたが,ヌミディアのマシニッサの援軍を擁し,騎兵兵力に勝ったローマ軍の快勝となり,カルタゴの死命を制した。…

【ポエニ戦争】より

…しかしローマの同盟市はローマから離反せず,ハンニバルはマケドニアのフィリッポス5世およびシチリアのシラクサと結んだにもかかわらず,首都ローマを衝きえず,半島の南端に追いつめられて戦線も膠着した。しかし,イベリア半島を制圧したスキピオ(大)に率いられたローマ軍は北アフリカに渡り,前202年ザマの戦でハンニバルを破り,第2次ポエニ戦争もローマの勝利に終わった。その結果,カルタゴは海外領土をすべて失い,巨額の賠償金を科せられた。…

※「スキピオ大」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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