日本大百科全書(ニッポニカ) 「グラックス兄弟」の意味・わかりやすい解説
グラックス兄弟
ぐらっくすきょうだい
Gracchi
古代ローマの支配層から出た兄弟の革新政治家(項目名の原綴りGracchiは、複数形)。兄はティベリウス、弟はガイウス。9年違いの兄弟。父は紀元前2世紀にコンスル(統領)を二度務め、母はスキピオ(大)の娘コルネリアで、兄弟の姉はスキピオ(小)の妻である。
〔1〕ティベリウス・グラックスTiberius Sempronius Gracchus(前162―前133) 前137年、財務官としてスペインに従軍したが、赴任の途上イタリア農民層(戦士層)の没落を目撃、スペインではローマ軍の敗北を体験して、農地改革によるイタリア戦士層の復興を決意した。前133年に護民官になり、富裕者による国有地の占有に制限を加え、それを超える分を没収して没落農民に分与する土地法を民会に提出した。同僚の護民官オクタウィウスが拒否権を発動すると、彼はその罷免を民会に提案し、承認させた。土地法の成立により、土地分配三人委員が設けられ、ティベリウス、その義父、および弟ガイウスがこれに就任して、活動を開始した。当時、ペルガモン王家が絶え、その遺産がローマ国民に贈られると、対外問題の処理が元老院の管轄事項であったにもかかわらず、ティベリウスは民会に諮ってこの遺産を土地分配三人委員の活動の財源にした。これらの活動は、閥族の間に大反対を巻き起こしたが、ティベリウスは法に反して護民官への再選を意図し、選挙の際に殺された。
〔2〕ガイウス・グラックスGaius Sempronius Gracchus(前153―前121) 前133年、ほぼ20歳で、兄の土地法による土地分配三人委員に選ばれた。兄の死後、その遺志を継いで改革を志し、前123、122両年に護民官となった(すこし以前に護民官再選は合法化されていた)。そのときの彼の改革立法のおもなものは、次のとおりである。
(1)土地法 兄の土地法がその死後骨抜きにされていたので、その実質を回復した(土地分配三人委員の裁判権を回復した)。
(2)穀物法 ローマ市の民衆に国家の負担で安価に穀物を配給する法。提案者には絶大な人気をもたらしたが、国庫には大きな負担となった。
(3)裁判法 同時代の護民官アキリウスの法(不完全ながら現存)と相まって、「不法取得返還訴訟」の法廷(被支配民がローマ当局者から不当に金品を奪われたとき、これに賠償請求する機会を与えたもの)の陪審員の地位を元老院議員から騎士身分の手に移した。これによって、騎士身分は元老院と対抗する政治勢力になった。
(4)属州アシア法 アシア州(小アジア西部)の徴税請負権を騎士身分に与えたもの。これにより、騎士身分は莫大(ばくだい)な富を得ることになった。
その他重要な法が多い。
ガイウスは、元老院に拠(よ)る閥族の反対を押し切るため、騎士身分を味方にする一方、民衆を扇動して独自の民会決議をつくり、これによって政策を進めるいわゆる民衆派(ポプラレス)的な政治の流れをつくった。彼は最後に閥族派(オプティマテス)との市街戦のなかに斃(たお)れたが、以後ローマ史は動乱の1世紀に入る。
[吉村忠典]