エラム(読み)えらむ(英語表記)Elam

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム
えらむ
Elam

ティグリス川以東からザーグロス山脈一帯、現在のイラン南西部のフーゼスターン地方をさす古名。「エラム」は古代バビロニア語で東方を意味する。スーサを中心とするパルスマシュを核に、東のアンシャン、北のシマシュがその中心。

 歴史は旧石器時代から始まるが、新石器時代にはオリエント最古の文化一つであるスーサ第1層が繁栄した。これは日干しれんがを用いた住居を有し、ヒツジ大麦なども利用し、さらに美しい彩文土器を使用した文化である。第2層ではメソポタミア文化の影響が認められ、シュメール文字に似た原エラム文字も使用されていた。すでに城壁を巡らした都市文明であり、その遺跡からはザーグロス山脈の金、銀、銅、鉛や瑠璃(るり)、ラピスラズリなどの遺物が多く出土し、メソポタミアとの関係が密接であったことを証明している。しかし、両者の関係は平和的ではなく、メソポタミアに強力な王朝ができればその支配下に入り、弱体化すると逆にエラムが侵入するという繰り返しであった。スーサで出土した、エラム鎮圧の記念物である、アッカドのナラム・シンの戦勝碑やハムラビ法典などは、両者の敵対関係と、エラムの略奪を証明するものといえる。

 紀元前9世紀にはペルシア人の侵入が始まり、前630年にはアッシリア人にスーサが破壊された。アケメネス朝ペルシア時代にもスーサは帝国の重要な三大都市の一つで、エラム語公用語として用いられた。ダリウス大王のベヒスタンビストゥン碑文には、ペルシア語アラム語とともに、エラム語でも記録されている。エラム人の人種的帰属は現在なお不明である。

[糸賀昌昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム
Elam

イラン南西部,現フージスターン地方の古代地名。エラム人の地。スーサチョガ・ザンビル遺跡が代表的遺跡。アッカド王朝とウル第3王朝に支配されたが独立し,王の姉妹の子を継承者とする独特の母系王制が出現。前 1600年頃カッシート人に敗れたといわれる。前 14世紀末頃再興し,エラム王国を樹立,約1世紀近く黄金時代を迎え,歴代の王は「アンザン (アンシャン) とスーサの王」という称号を名のった。シュトルク=ナフンテ1世,クティル=ナフンテ,シルハク=インシュンナクらの王が領土を拡大,ペルセポリス地方まで版図に入れたが,バビロニアのネブカドネザル1世 (在位前 1124~06) に滅ぼされ,それ以後 300年以上にわたり,歴史の舞台から姿を消した。前8世紀頃再び強力な軍事国家としてエラムは登場し,アッシリアと衝突することとなり,前 640年頃アッシリア王アッシュールバニパルによってスーサを制圧され,エラムの独立は奪われた。のち,アケメネス朝ペルシアの属領となり,スーサはペルシア帝国三大都市の一つとなった。独自の言語と文化をもっていたが,メソポタミアの影響を強く受け,先史時代の美しい彩文土器や,優れた青銅製品に特徴があった。

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