エラム(その他表記)Elam

改訂新版 世界大百科事典 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム
Elam

イラン南西部のスーサを中心とした平野部と,イラン高原南部の山岳部から成る地域に存在した古代の国家。エラムはメソポタミアの文献に現れる名称で,もともと山岳部の地方を指していた。エラム人自身は彼らの国土をハタムティHatamti,あるいはハルタムティHaltamtiと呼んでいた。

 バビロニアに隣接したエラムは,前4千年紀後半のメソポタミア南部に起こった都市革命の影響をいちはやく受けた。最近の考古学研究によれば,前4千年紀末から前3千年紀前半にかけて,イラン高原南部にラピスラズリ紅玉髄,凍石(ステアタイト)などの貴石の採取と加工,メソポタミアやインド方面への輸出によって繁栄した一つの文化圏が存在し,この交易活動と結びついてスーサからシースタンのシャフル・イ・ソフタにいたる各地に原エラム文字が使用されていたことが証されている。現在知られる最古のエラム国家はアワン王国で,前2500年ころ(あるいは前27世紀)に成立し,バビロニアに侵入してウル第1王朝を征服した。アッカドのサルゴン以来,メソポタミアの諸王はイラン高原に遠征をくりかえし,ウル第3王朝は総督をおいてエラムを支配した。しかし,まもなくシマシュ王国が自立し,前2004年にウル第3王朝を滅ぼした。エラムの主要都市スーサに王国が成立したのは前19世紀半ばであり,〈アンシャンおよびスーサの王〉の称号もこの時はじめて現れる。中期エラム(前1330ころ-前1110ころ)の時代が最盛期で,ドゥル・ウンタシュ(現,チョガ・ザンビル)に巨大なジッグラトを建設したウンタシュナピリシャ,バビロニアを征服してハンムラピ法典の石碑をスーサに持ち帰ったシュトルクナフンテが有名である。新エラム王国(前750ころ-前639)はバビロニアと同盟してアッシリア帝国に対抗したが,アッシュールバニパルの遠征軍による首都スーサの破壊によって,滅亡した。

 エラムはスーサ,アワン,シマシュ,アンシャンなどの各地に割拠する諸侯の上に,宗主権を有する王が君臨する一種の連合国家であった。エラム王家では兄弟相続が末期にいたるまで原則的に維持された(一般民衆の間では前2千年紀に兄弟相続から父子相続に移行する)。また,王家に独特の慣習として兄妹婚があり,これはアケメネス朝のペルシア王家にも影響を与えたと言われている。エラム人の信仰は,なによりも女神崇拝の優位と呪術的な蛇の崇拝によって特徴づけられる。女神ピニキルは〈神々の母〉〈天の女王〉として最高の地位を占め,また南部の古い地母神キリリシャも広く崇拝された。しかし,前2千年紀半ばになると男神フンバンがピニキルあるいはキリリシャを配偶者として,神々の世界の支配者となった。また,スーサ王国の成立とともにスーサの市神インシュシナク(〈スーサの主〉の意)の地位が向上し,やがてフンバン,キリリシャとともに三位一体を形成するようになった。そのほか,太陽神ナフンテはバビロニアのシャマシュと同じように契約の神として信仰された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム
えらむ
Elam

ティグリス川以東からザーグロス山脈一帯、現在のイラン南西部のフーゼスターン地方をさす古名。「エラム」は古代バビロニア語で東方を意味する。スーサを中心とするパルスマシュを核に、東のアンシャン、北のシマシュがその中心。

 歴史は旧石器時代から始まるが、新石器時代にはオリエント最古の文化の一つであるスーサ第1層が繁栄した。これは日干しれんがを用いた住居を有し、ヒツジや大麦なども利用し、さらに美しい彩文土器を使用した文化である。第2層ではメソポタミア文化の影響が認められ、シュメール文字に似た原エラム文字も使用されていた。すでに城壁を巡らした都市文明であり、その遺跡からはザーグロス山脈の金、銀、銅、鉛や瑠璃(るり)、ラピスラズリなどの遺物が多く出土し、メソポタミアとの関係が密接であったことを証明している。しかし、両者の関係は平和的ではなく、メソポタミアに強力な王朝ができればその支配下に入り、弱体化すると逆にエラムが侵入するという繰り返しであった。スーサで出土した、エラム鎮圧の記念物である、アッカドのナラム・シンの戦勝碑やハムラビ法典などは、両者の敵対関係と、エラムの略奪を証明するものといえる。

 紀元前9世紀にはペルシア人の侵入が始まり、前630年にはアッシリア人にスーサが破壊された。アケメネス朝ペルシア時代にもスーサは帝国の重要な三大都市の一つで、エラム語は公用語として用いられた。ダリウス大王のベヒスタン(ビストゥン)碑文には、ペルシア語、アラム語とともに、エラム語でも記録されている。エラム人の人種的帰属は現在なお不明である。

[糸賀昌昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム
Elam

イラン南西部,現フージスターン地方の古代地名。エラム人の地。スーサチョガ・ザンビル遺跡が代表的遺跡。アッカド王朝とウル第3王朝に支配されたが独立し,王の姉妹の子を継承者とする独特の母系王制が出現。前 1600年頃カッシート人に敗れたといわれる。前 14世紀末頃再興し,エラム王国を樹立,約1世紀近く黄金時代を迎え,歴代の王は「アンザン (アンシャン) とスーサの王」という称号を名のった。シュトルク=ナフンテ1世,クティル=ナフンテ,シルハク=インシュンナクらの王が領土を拡大,ペルセポリス地方まで版図に入れたが,バビロニアのネブカドネザル1世 (在位前 1124~06) に滅ぼされ,それ以後 300年以上にわたり,歴史の舞台から姿を消した。前8世紀頃再び強力な軍事国家としてエラムは登場し,アッシリアと衝突することとなり,前 640年頃アッシリア王アッシュールバニパルによってスーサを制圧され,エラムの独立は奪われた。のち,アケメネス朝ペルシアの属領となり,スーサはペルシア帝国三大都市の一つとなった。独自の言語と文化をもっていたが,メソポタミアの影響を強く受け,先史時代の美しい彩文土器や,優れた青銅製品に特徴があった。

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百科事典マイペディア 「エラム」の意味・わかりやすい解説

エラム

古代のイラン高原の称,また同地方に興った国名。ラピスラズリ,紅玉髄などを産し,古くスーサ,アンシャンを中心とする地方にメソポタミアと並行する文化が開け,歴史時代には常にこれと抗争。独特の文字を作り,エラム語はペルシア時代まで通用した。
→関連項目シアルク

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エラム」の解説

エラム
Elam

イラン高原のスーサやアンシャンを中心とした地域と言語の呼称。エラム語の語族は不詳。独自の文字を発明するなどメソポタミアと並行して文明を育て,以後メソポタミアに対する有力な対抗勢力になる。前11世紀頃には絶頂期を迎え,壮大なジッグラトを建設した。アッシリアアッシュル・バニパルの遠征で敗北し,滅亡。アケメネス朝に交代した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「エラム」の解説

エラム
Elam

現在のイラン高原にあたる地方の旧称
新石器時代からスサを中心に彩陶 (さいとう) 文化をうみ,シュメールとともに栄えた。エラム人はヤペテ人系ともいわれ,シュメール・バビロニアを支配したこともある。前9世紀にペルシア人の影響を受けたが,エラム語はペルシア帝国の公用語の地位を占めた。

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世界大百科事典(旧版)内のエラムの言及

【アンシャン】より

…エラムの地名。エラムは現在のイラン南西部に成立した古代国家の名称で,アンシャンの名が初めて現れるのは,アンシャンの征服に言及したアッカド王マニシュトゥスの碑文である。…

※「エラム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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