モンタージュということばは,元来,〈(部品や断片などの)組立て〉という意味のフランス語であるが,映画や写真などの世界では,以下に見るように特有の意味をもった用語として用いられている。
映画用語としてのモンタージュは,単に映画の編集作業の全般を指すことばとしても用いられるが,〈モンタージュ理論〉という言い方で知られるように,どのように映像を構成してそれに意味をもたせ,また語らせるかという,広い意味での〈思想〉の映像化のための映像構成法を指していう場合が多い。すなわち,撮影したフィルムの断片をつなぎあわせる際,その結合のしかたによって〈新しい観念〉,あるいは〈新しい意味〉がつくりだされるのであり,映画は単に〈撮影〉されるのではなく〈組み立て〉られるものであるというのがモンタージュ理論の基本である。
一つの場面を複数のカットで構成することは,映画が〈ストーリーを撮る〉ことを始めた初期から行われており,1910年代にアメリカの映画監督D.W.グリフィスは,カットとカットを飛躍的につないで〈劇的な〉効果をだすことを試みている。当時はまだそれを意味する特別なことばはなかったが,グリフィスはすでにモンタージュを発見していたということができる。しかし,モンタージュが理論化されるのは1920年代のフランスとソビエトにおいてであり,たとえばフランスの批評家レオン・ムーシナックLéon Moussinac(1890-1964)は,映画を〈目で見るリズム〉と考え,映画を組み立てるということは映画にリズムをあたえることであるというモンタージュ論を展開した。アベル・ガンス監督の《鉄路の白薔薇》(1923)はその実験的な代表作とされる。しかし,フランスのモンタージュ理論は〈リズム論〉に終わり,むしろジャン・エプスタンらの〈フォトジェニー〉論がサイレント映画の基本的な理論であった。一方ソビエトでは,フランス映画やアメリカ映画の構造を具体的に分析して〈映画芸術の基礎〉としてのモンタージュ論が展開される。監督・理論家のレフ・クレショフLev Kuleshov(1899-1970)は〈モンタージュは映画のドラマトゥルギーである〉と考え,プドフキンはモンタージュがカットの〈連結〉である点を強調し,エイゼンシテインは逆にカットの連結ではなく〈衝突〉がモンタージュの本質であると主張した。こうしてモンタージュ論は映画の技術論から芸術論へと発展した。そしてプドフキンとエイゼンシテインのモンタージュ論は,それぞれの監督作品《母》(1926)と《戦艦ポチョムキン》(1925)で実践されている。
ソビエトのモンタージュ論は,のち30年代の〈社会主義リアリズム〉をへて政治的に批判され,また,第2次世界大戦直後のイタリア〈ネオレアリズモ〉のドキュメンタリー・タッチが世界の映画を変革しはじめたころには,映画の〈演出(ミザンセーヌmise-en-scène)〉の基本は〈カット割り(デクパージュdécoupage)〉ではなく,〈劇的空間の持続性の尊重〉を旨とする〈ワンシーン・ワンカット(プランセカンスplan-séquence)〉にあるとするフランスの映画理論家アンドレ・バザンAndré Bazin(1918-58)の〈ワンシーン・ワンカット〉説によって否定される形となった。しかし,それが映画の芸術的表現に寄与したところは大きく,映画理論の〈歴史〉においては重要な地位を占めている。
執筆者:柏倉 昌美
写真芸術においては,多重露光,はり合せなどの方法による特殊な効果を出すための合成写真をいう。一般には,フォトモンタージュphotomontageの呼称が用いられる。〈フォトモンタージュ〉ということばは,第1次大戦直後にベルリンのダダイストによってつくりだされたものである。しかし,写真的イメージの合成術は19世紀にすでにあり,またキュビスト(ブラックなど)やM.エルンストのコラージュ,マン・レイらのフォトグラムなどフォトモンタージュに類した技法も見られ,さらにフォトモンタージュそのものの手法も多様で,フォトモンタージュの概念はいまだにあいまいである。ここでは一応,フォトモンタージュを,既成の写真を合成して別のイメージを人工的につくりだす表現と考えることにする。したがって,19世紀の半ばに写真を既成の美術の主題に近づけようとしたO.G.レイランダーやロビンソンHenry Robinson(1830-1901)らのイメージ合成術も含まれる。これは,観念的(寓意的,教訓的)な主題を写真によって作像する美術の一変種にすぎなかったが,外界のイメージの技術的な定着からの写真の解放,および人工的合成という手法の先駆という意味をもっていた。しかし,彼らの作品は通俗的なイメージ以上ではなかったから,美術や写真の発展の前面にはあらわれえず,大衆的娯楽に変形されて生き残ってきた。20世紀初頭にベルリンのダダイストは,この大衆的娯楽の浸透に〈反芸術〉へのひそかな刺激を見いだしたのである。
ベルリン・ダダにおけるフォトモンタージュは,J.ハートフィールドとG.グロッス,R.ハウスマンとハンナ・ヘーヒHannah Höch(1889-1978)という2組のグループによって別々に,ほとんど同時期につくりだされたと思われる。その萌芽は第1次大戦末期にあり,展開は1920年代の初めである。いずれの場合も,写真をレディ・メードのイメージとみなし,新聞や雑誌から切り抜いてはり合わせ,日常的な秩序を引き裂いていく刺激的なイメージを生みだそうとした。これらのダダイストによるフォトモンタージュには最初から文字や線などの要素も混入しており,また想像力の質も微妙に違っていたが,初期は全体として混沌としたイメージであり,秩序に対する無秩序という点で似かよっていた。その時点ではフォトモンタージュは,一方では大都市の発展がもたらす際限ない無秩序をことさら増幅して,資本主義的社会を攻撃する手法となっていたが,同時にそれは,再現的イメージのよってきた三次的な連続空間の解体のみならず,因果性に対する偶然性の導入,線型言語の解体とも関連する,20世紀の一連の知的変動のひとこまを示しているとみなすことができる。
その後フォトモンタージュは,初期の混沌としたイメージからいくつかの傾向に枝分れする。たとえば一方では,ダダの破壊的な性格と一見相いれないように見えていた近代的な抽象,さらには近代デザインとも結びつきはじめる。フォトモンタージュはイメージ合成法,異質な要素間の結合法として一種の合理化を経過し,〈反芸術〉という芸術的文脈から,より実際的な社会的文脈に移って存続するようになったのである。その一つが,ベルリン・ダダの一員ハートフィールドによって30年代に社会的メディアを通じて表現される政治的傾向である。ハートフィールドは写真の合成法を駆使して破壊力をもつイメージを創出し,反ファシズム闘争をつづけるが,これは〈プロパガンダ的フォトモンタージュ〉と呼びうるもので,同様の傾向は1920~30年代のロシア構成主義にも見いだされる。ロシアでは,エル・リシツキー,A.ロドチェンコ,クルツィスらによって,こうしたプロパガンダの視覚言語が実践された。もう一つは,構成主義と必ずしも分離できないが,バウハウスのモホリ・ナギ,H.バイヤーらによって視覚的な造形言語として体系的に探求され,広くグラフィック・デザインに応用されていく傾向であり,そのもっとも合理的な側面は,この時期のタイポグラフィーと写真の合成法につながっている。フォトモンタージュのこうした社会的な応用は,もはやダダイストの破壊的な性格をもっているわけではない。しかしこの傾向は,エルンストの超現実的なフォトモンタージュの流れもくんで,広告をはじめグラフィックな視覚伝達における刺激的なナンセンスの楽しみとして,現在も受けつがれている。
執筆者:多木 浩二
犯罪捜査では,犯人を目撃した人たちの記憶に基づいて,多数の顔写真の中から犯人の特徴や類似点を選出し,それらを編集すること,あるいは編集した似顔写真をいう。顔の輪郭,目,鼻,口,頭髪などの選出された部分を合成し,継目やバランスを整えて目撃者にみせ,その助言によって修整を繰り返して犯人のイメージを写真上に表現する。初期のころは写真印画の切りばり,複写,修整などの手順によって作成されていた。昭和30年代に入って,4台のスライドプロジェクターを組み合わせ,個々のプロジェクターから写し出される顔の部分をスクリーン上で合成する方法が開発された。この装置はモンタージュ写真合成機と呼ばれ,頭髪,目,鼻,口,あごなどの部分は各プロジェクターに備えた可動式のスリットによって選択される。昭和40年代の後半からはスライドプロジェクターに代わって小型テレビカメラを使用し,モニター上に合成写真を写し出す方法が利用されている。この方法では顔を四つの部分に分ける4枚の選択ミラーが用いられていて,各部分は写真印画から直接的に撮像される。複数の目撃者が合成された写真を同時にみることができ,部分の交換がすみやかなため,似顔写真の製作がスピードアップされ,新鮮な記憶に基づく犯人像が得られるようになった。近年ではモンタージュ写真を補う意味で似顔絵も利用されている。
執筆者:吉田 公一
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…ジャン・リュック・ゴダールは〈すべての映画はアメリカ映画である〉といっている。クローズアップやモンタージュなどさまざまな映画的手法を開発し,それらを駆使して巧みに長編の物語を語ることをはじめ,それ以後のすべての映画の基礎を築いたのは,〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスであった。また,スターシステムや撮影所のシステムをはじめ,映画の製作,配給,興行のしくみなど,映画のあらゆる側面を通じて,〈アメリカ映画〉から生まれ発展し,各国の映画にもたらされたものは数多い。…
…フィルムの長さにして5200m,サイレントスピードによる上映で4時間半以上)。〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスがここで用いた数多くの〈映画的〉技法は各国の映画に影響を与え,とくに革命後のソ連の若い映画作家たち(エイゼンシテイン,プドフキン,クレショフ)にとっては〈モンタージュ理論〉の形成を促すきっかけとなった。夫を無実の罪で捕らえられ,生まれたばかりの子どもも奪われて〈施設〉に預けられてしまう女性(メー・マーシュ)を描く現代アメリカ編〈母と法律〉に,古代バビロニア編〈バビロンの崩壊〉,古代エルサレム編〈キリストの受難〉,中世フランス編〈聖バルテルミーの大虐殺〉という三つの異なる時代の歴史的事件のエピソードをつけ加えて,人間の不寛容の事実を描く。…
…〈映画は光の詩だ〉と主張したガンスは,《鉄路の白薔薇》のシナリオをラテン語詩のリズムによってコマ単位で書いたともいわれる。このサイレント映画ならではの手法はエイゼンシテインらソ連の〈モンタージュ理論〉派の映画作家に影響を与えた。さらに《ナポレオン》では,3台の映写機を使って3面のスクリーンに映写する〈ポリビジョン〉方式(シネラマの前身といわれる)を考案するとともに,ポータブルカメラを駆使して走る馬のくらにカメラをくくりつけるなど,ありとあらゆる撮影方法を試みた。…
…はじめにエイゼンシテインとニーナ・アガジャーノワ・シュトコが準備した脚本《1905年》は,革命の全般を描こうとする数百ページに及ぶものであったが,その内のわずか半ページにあたる黒海艦隊の反乱をテーマにした部分を〈五幕の悲劇〉,すなわち〈人間と蛆〉〈後部甲板上のドラマ〉〈死者からの訴え〉〈オデッサ階段〉〈艦隊との遭遇〉という構成で完成した。実際にあった歴史的事件を題材に個人ではなく集団を主人公として,中心的な役のほかは〈ティパージュtypage〉(タイプを中心とした配役)によって素人をつかい,俳優の演技よりも〈モンタージュ〉のほうが雄弁であること,〈モンタージュ〉が映像による思想の伝達手段であることを立証した。とくに,エイゼンシテインが23年に発表した〈アトラクション(吸引)のモンタージュ〉理論を具象化し,カットの組合せから生まれる〈衝突〉のイメージによって激しい動的なリズムと緊迫感を盛り上げた有名なオデッサ階段の虐殺シーンは,モンタージュの手本とされている。…
… トーキーの理論的基礎は,まだトーキーを製作してもいなかったソビエトで築かれた。28年,エイゼンシテイン,プドフキン,グリゴリー・アレクサンドロフ(1903‐83)の3人の連名で,〈トーキーのモンタージュ論〉ともいうべき〈トーキーに関する宣言〉が発表された。そして,それを具体化したソビエト最初の長編トーキーであるニコライ・エック(1902‐59)監督の《人生案内》(1931)がつくられ,フランスではルネ・クレールが《巴里の屋根の下》(1931)で新しいトーキー表現を開拓し,アメリカではルーベン・マムーリアンが《市街》(1931)で音を映画的に処理し,ドイツではG.W.パプストが《三文オペラ》(1931)で新しい音楽映画の道を開いた。…
※「モンタージュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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