19世紀ロシア最大の詩人で、ロシア国民文学の創始者。プーシキンの最大の文化的功績は、近代的なロシア文章語の標準の確立と世界文学の水準に達する新しい文学の創造の2点に集束する。
[栗原成郎]
プーシキンは、11世紀から19世紀初頭に至るまでのロシア文章語において歴史的役割を果たしてきた言語文化の諸要素(教会スラブ語法、ヨーロッパ語法、ロシア民衆語法)を独自に総合し、新しい国民的文章語の創造に努力した。初期のプーシキンの言語は、ロシア語を西欧近代語の体系に近づけようとするカラムジン派のスタイルに依拠したが、『エウゲーニー・オネーギン』『ジプシー』『ボリス・ゴドゥノフ』を書く20年代のなかばから前述の言語文化要素の総合の過程が始まった。彼は自分の作品のなかにさまざまの資料から異なる言語要素を大胆に導入しつつ、その一方において、統語法の型と語彙(ごい)の用法原則を設定して、率直で気品に満ち、柔軟で活力にあふれた文学的言語を創造した。
プーシキンは、叙情詩、叙事詩、物語詩、劇詩、民話詩、短編小説、長編小説、歴史文学、紀行文学、評論など、近代文学のあらゆるジャンルを開拓し、しかもそれぞれの分野において同じように高い完成度をもった作品を創作し、それによってロシア文学の発達の歴史に新しい時期を画した。
[栗原成郎]
1799年5月26日(ロシア暦)モスクワに生まれた。プーシキン家は由緒ある貴族の家柄で、父セルゲイは退役近衛(このえ)少佐。母ナデージダは、ロシアに帰化したアビシニア(エチオピア)人でピョートル大帝の寵臣(ちょうしん)ガンニバル将軍の孫娘であった。プーシキンは600年続いた古いロシア貴族の家門とアフリカの情熱的な血との混血を誇りとして、それを作品の題材とさえしている(叙情詩『わが系譜』、小説『ピョートル大帝の黒奴』など)。父はフランス古典文学に通じた粋人で、カラムジン、ドミートリエフ、ジュコフスキーなどの文人がよく客間に集まった。伯父のワシーリイ・プーシキンはカラムジン派の教養豊かな詩人であった。このような知的環境のなかでプーシキンは文学的に早熟となり、父のフランス語蔵書を読みあさり、10歳ごろからフランス語で詩を書き始めた。1811年サンクト・ペテルブルグ近郊のツァールスコエ・セロー(皇帝村、現プーシキン市)に開設された寄宿制の貴族学校リツェイに第1期生として入学し、自由主義的な校風のなかで知的に成長し、6年間の在学中に約150編の詩を書いたが、それらの詩は後期古典派の影響下にあった。17年リツェイを卒業、外務院に勤務し、首都サンクト・ペテルブルグで華やかな社交生活を送りながら、20年にロシアのフォークロアに材をとった軽妙で優美な物語詩『ルスランとリュドミラ』を完成し、世間の喝采(かっさい)を浴びた。しかしその一方においては、デカブリストの思想に共鳴し、皇帝批判を含む頌詩(しょうし)『自由』(1817)、農奴制の崩壊を予言した『農村』(1819)など一連の過激な政治詩を書いたことがアレクサンドル1世の逆鱗(げきりん)に触れ、同年、南ロシアに追放された。
[栗原成郎]
南方追放時代(1820~24)はプーシキンのロマンチシズムの開花期にあたり、バイロンの影響のもとに『コーカサスの捕虜』(1820~21)、『盗賊の兄弟』(1821~22)、『バフチサライの泉』(1822~23)の3編の物語詩が書かれた。1823年には韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』が起稿される。そのころからロマン主義の限界が意識されるようになり、物語詩『ジプシー』(1824)においてはバイロン的主人公に対して批判の目が向けられ、のちに詩人の重要課題となる個人と社会、自由と運命の問題が鋭く提起される。
1824年夏、無神論を肯定した手紙が理由となって官職を解かれ、母方の領地プスコフ県ミハイロフスコエ村に幽閉の身となる。ミハイロフスコエ村蟄居(ちっきょ)の2年間に悲劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1825)を完成した。
[栗原成郎]
1826年秋、ニコライ1世によって追放を解かれるが、以後晩年まで官憲の厳しい監視と検閲のもとに置かれる。31年、絶世の美女ナターリヤと結婚するが、その前年の秋、結婚祝いに父より譲与されたニジェゴロド県ボルジノ村に赴き、約50編のさまざまなジャンルにわたる作品を3か月間で書き上げた。短編小説集『ベールキン物語』、4編の小悲劇『石の客』『吝嗇(りんしょく)の騎士』『モーツァルトとサリエリ』『疫病さなかの酒宴』、および韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』の基本部分がこのとき完成した。
ナターリヤとの結婚は詩人の悲劇の始まりを意味した。ナターリヤはその希有(けう)の美貌(びぼう)のゆえに社交界の華ともてはやされ、宮廷の舞踏会にとって不可欠な存在であった関係から、プーシキンは侍従補に任じられ、宮廷勤務を余儀なくされた。この人事は詩人にとって屈辱以外のなにものでもなかったが、その苦境のなかで『プガチョフ反乱史』(1833)、小説『大尉の娘』(1836)、最後の物語詩『青銅の騎士』(1833)、中編小説『スペードの女王』(1834)などを書いた。1837年1月27日(ロシア暦)プーシキンは、妻ナターリヤのスキャンダルがもとで、フランス出身の近衛青年士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘に追い込まれ、腹部に致命傷を受け、2日後に38歳の短い生涯を閉じた。
[栗原成郎]
プーシキンの本領は叙情詩の分野においてもっともよく発揮される。彼の詩の主要な特徴は音(おん)・リズムと意味・イメージとの自然な結び付き、完全な調和にあり、自己の精神体験に基づいた心底から湧(わ)き起こる志向と感情が音楽性を伴って表現される点にある。プーシキンは、ロシアの真実、ロシア人の国民性、ロシアの歴史的・社会的条件を記述しえた真の意味での国民詩人であり、ロシア文学を普遍的なものに高めた。
[栗原成郎]
『『プーシキン全集』全6巻(1972~74・河出書房新社)』▽『池田健太郎訳『オネーギン』(岩波文庫)』▽『神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』(岩波文庫)』▽『金子幸彦訳『プーシキン詩集』(岩波文庫)』▽『神西清訳『大尉の娘』(岩波文庫)』▽『池田健太郎著『プーシキン伝』(中公文庫)』
ロシア連邦北西部、レニングラード州の観光都市。人口9万3600(1996)。サンクト・ペテルブルグの南郊にあり、18世紀初めにロシア皇帝の夏の宮殿として建設された。現在、18~19世紀につくられた宮殿や公園が保存され、多数の観光客が訪れる。第二次世界大戦でドイツ軍に占領され破壊されたが、戦後復旧した。ロシア革命の1917年まではツァールスコエ・セローЦарское Село/Tsarskoe Selo、37年までジェツコエ・セローДетское Село/Detskoe Seloといったが、ここで学んだ詩人プーシキンを記念して改名された。
[中村泰三]
ロシアの詩人。父方の先祖は由緒ある貴族で,父はディレッタントながら詩をよくし,伯父のワシーリーはカラムジン派の詩人であった。母方の曾祖父ガンニバル将軍Abram Petrovich Gannibal(1697ころ-1781)はエチオピア出身で,ピョートル1世の寵愛を受けた。このアフリカの血はプーシキンの気質や相貌に明らかに現れている。1811年,ツァールスコエ・セロー(現,プーシキン)に開校された貴族の子弟のためのリツェイ(学習院)に1期生として入学,詩作で頭角を現し,在学中に約150編の詩を書いた(初めはフランス語による詩作が多かった)。進級公開試験に際し朗読した詩《ツァールスコエ・セローの思い出》(1815)で列席していた詩壇の長老デルジャービンの祝福を受け,リツェイ外にもプーシキンの名は知られるようになった。在学中にジュコーフスキー,バーチュシコフら先輩詩人たちに仲間として遇され,チャアダーエフをはじめとする進歩派の青年貴族たちとも親交を結んだ。卒業後外務省に勤務,20年におとぎ話風の物語詩《ルスラーンとリュドミーラ》を発表,若い世代の熱狂的な支持を得たが,デカブリストたちに共感し,頌詩《自由》(1817),農奴制を批判した《村》(1818)などのすぐれた政治詩を書いたため,南ロシアへ送られた。
南方での生活(1820-24)はちょうどバイロンを読んでいたプーシキンに,《カフカスの捕虜》(1821)に始まるロマンティックな物語詩の素材を提供してくれた。1824年,無神論を肯定した手紙が押収され,要注意人物として官職を解かれ,プスコフ県ミハイロフスコエ村の領地で謹慎を命ぜられた。田園での孤独な生活,北方ロシアのひそやかな自然,乳母アリーナの語ってくれるロシア・フォークロアの世界とのふれあいがプーシキンをロシアの国民詩人へと成熟させた。バイロンに代わってシェークスピアが彼の心をひきつけた。シェークスピア研究はまず史劇《ボリス・ゴドゥノフ》(1825,刊行1831)に結実した。追放処分を受けていたため,25年のデカブリスト蜂起への連座を免れたが,皇帝ニコライ1世の〈温情〉によって自由の身とされた後も,終生秘密警察の厳しい監視と検閲のもとに置かれた。
絶世の美少女とうたわれたナターリアに恋し,31年結婚したが,その前年,結婚祝に父から贈られたニジェゴロド県ボルジノ村を検分に訪れた際,コレラ禍で足止めされ,いわゆる〈ボルジノの秋〉として知られる記念すべき時を過ごした。彼の創作の頂点をなす約50編の作品がこの時に書かれた。短編小説集《ベールキン物語》,4編の〈小悲劇〉のほか,1823年に書き始められていた韻文小説《エフゲーニー・オネーギン》の基本的部分が完成したのもこの時である。しかしナターリアとの結婚は悲劇の始まりであった。軽佻浮薄で知的関心のない妻は,社交界の花形で,彼女を舞踏会の花としようと欲した皇帝がペテルブルグに彼女を引きとめるためにその夫を年少侍従(カーメル・ユンケル)に任命した。〈年少の〉小貴族に与えられる名誉は詩人にとって屈辱であった。世俗権力との衝突の中でプーシキンは歴史的な視野を拡大していき,ピョートルの功業をほめたたえつつ,その犠牲になったペテルブルグの小市民の悲劇を描いた叙事詩《青銅の騎士》(1833),ゴーゴリやドストエフスキーの〈ペテルブルグ物〉の先駆けといえる小説《スペードの女王》(1834),レールモントフの《現代の英雄》やトルストイの《戦争と平和》の原型ともなった歴史小説《大尉の娘》(1836)を書いた。妻とフランス士官G.ダンテスとのスキャンダルにまきこまれたプーシキンは,37年1月27日ダンテスとの決闘で致命傷を負い,2日後に37歳の生涯を閉じた。
プーシキンの主要な功績は,近代文章語の確立と新しい国民文学の創造の2点である。ツルゲーネフはプーシキンの創作活動について,〈ほかの国においては1世紀あるいはそれ以上も隔てられていた二つの仕事(文章語と国民文学の創造)が,彼ひとりによって成しとげられた〉と語っている。プーシキンの文学を特徴づけるのは,人間の自由と尊厳をうたい上げる情熱であり,彼の作品の魅力は,音と意味の完璧な結びつき,叙述の自然さ,明晰,簡明に存するが,これはメリメが嘆いているように翻訳をとおすと大半が失われてしまう。にもかかわらず彼の明るい調和的な文学世界は日本の読者を引きつけ,1883年の抄訳《大尉の娘》(《露国奇聞 花心蝶思録》)以降,中山省三郎,神西清らのすぐれた翻訳によって広く読まれている。
執筆者:川端 香男里
ロシア連邦,ヨーロッパ・ロシア北西部,レニングラード州の都市。サンクト・ペテルブルグの南24km。人口9万4900(1993)。1728年から1918年までツァールスコエ・セローTsarskoe Selo,37年までジェツコエ・セローDetskoe Seloと称された。プーシキン死後100年を記念して現在の名称となった。ジェツコエ・セロー時代には,子どもたちのためのサナトリウムが設けられていた。スウェーデンの古い記録にはサアリス・モイシオ(島,農場)とあり,それがロシア化され,サールスカヤ・ムイザ(ムイザは農園付き別荘の意),サールスコエ・セローとなったが,ピョートル1世の皇后(ツァリーツァ)に所領として与えられた後,ツァールスコエ・セローと呼ばれるようになった。女帝エリザベータ・ペトロブナ(在位1741-61),エカチェリナ2世(在位1762-96)時代に主要な宮殿,庭園が造られ,19世紀になるとペテルブルグの貴族,上流階級の避暑地として発展した。1811年,貴族の子弟のための教育機関リツェイ(学習院)がこの地に設立され,プーシキンが11-17年ここに学んだ。1917年春,革命軍に捕らえられた皇帝ニコライ2世はここのアレクサンドロフ宮殿に監禁されていた。19年10月白衛軍に一時占拠された。41年9月から44年1月までこの町を占領したドイツ軍は,クアレンギやラストレリによって建築された美しい宮殿を徹底的に破壊した。第2次大戦後,再建,修復に多大の努力が注がれ,現在では少なくとも外観上は革命前の姿に復元されている。
執筆者:川端 香男里
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1799~1837
ロシアの詩人,国民文学の創始者。デカブリストと同じ世代に属し,国民に記憶される多くの詩や韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』のほか,小説では『スペードの女王』『大尉の娘』などを書いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ユダヤ人のカニグズバーグE.L.Konigsburg,I.B.シンガー,黒人のハミルトンH.Hamiltonがすぐれ,ほかにフォックスP.Fox,ボイチェホフスカM.Wojciechowskaらが問題作を書いている。
[旧ソ連邦]
かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。…
…ロシアにおけるロマン主義の最も代表的な宣伝普及者の一人。プーシキンの親友で,彼にバイロンの意義を説いた。初期の詩は古典主義的・知性的要素を多くとどめているが,1820年代後半にはロマン主義的モティーフをうたったすぐれた抒情詩(《滝》(1825),《波立ち》(1829)など)を数多く書いた。…
…もちろん,熟達した翻訳者においては,これは母国語の場合のように行われてしまうのであるが。しかし,翻訳は了解ばかりでなく,翻訳言語による〈再表現化〉(ロシア文学の父,A.S.プーシキンがすでにこの概念を用いている)の作業をともなっている。すなわち,翻訳者は原語テキストの読者であると同時に,翻訳テキストの受容者たちにとって原作者の代理,あるいは新しい作者として登場することになるから,先に挙げたコミュニケーション図式は翻訳者を接点にして,原作者→原語テキスト読者/翻訳者→翻訳テキストの読者,というように二重化されるのである。…
…ただし,前時代に比べて多くの新しい特徴を示すこの時期の書き物のことばを,新ロシア語New Russianと呼ぶ。 A.S.プーシキン(1799‐1837)は韻文と散文の両方の作品で新しい言文一致の模範を示し,まもなくそれがすべての人の受け入れるところとなって,ついにロシア語の全国民的な諸規範が確立した。広義の現代ロシア標準語Modern Literary Russianはプーシキン以後現代までのロシア語を指すが,より厳密には,1930年代後半からの約50年間に定まった書きことばと話しことばの諸規範を意味する。…
… その他の国々では,ロマン主義は多くの場合国家統一へと向かうナショナリズムの進展と並行し,国民的な意識の高揚を目ざす国民文学運動として展開された。例えば,イタリアではリソルジメントと呼応しマンゾーニやレオパルディが文学運動を推進し,あるいはロシアではプーシキンやレールモントフらが,フランス文学の影響を排してロシア固有の文学の創造を目ざす国民文学運動としてのロマン主義を展開した。 この汎ヨーロッパ的な文芸運動も19世紀中ごろにはほぼ終わり,リアリズム等の旗印のもとに各国の社会状況に即した文芸思潮が登場した。…
※「プーシキン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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