プロブディフ(読み)ぷろぶでぃふ(英語表記)Plovdiv

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロブディフ」の意味・わかりやすい解説

プロブディフ
ぷろぶでぃふ
Plovdiv

ブルガリア南部、プロブディフ県の県都。トラキア平野中央部のマリーツァ川沿いに位置する同国第二の都市。人口33万8302(2001)。ローマ時代から交通の要所で、イスタンブールからここを経てヨーロッパ中央部につながる幹線道路が通じていた。そのため行政、商工業の中心地として繁栄したが、フン人や十字軍などさまざまな民族の攻撃を受けて町は何度か壊滅した。市街はマリーツァ川の岸辺と六つの丘陵上に広がり、ローマ時代の壁、中世要塞(ようさい)跡など史跡に富み、観光地ともなっている。

 古くから商工業が発展した町で、1892年から2年置きに国際見本市が開かれている。社会主義時代には重化学工業や精錬業が発展した。また19世紀中葉にフリスト・G・ダノフHristo Gruev Danov(1828―1911)が本格的な出版活動に乗り出した地で、トラキア地方の文化的拠点でもあり、市内には総合大学や医科大学、民俗博物館、考古学博物館などの教育・文化施設も多い。

[寺島憲治]

歴史

新石器時代にトラキア人集落から発展し、現在の名称はトラキアの集落名プルプデバPlupudevaに由来する。紀元前342年にアレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が占領したことから、以来フィリッポポリスPhilippopolisとよばれた。紀元45年にローマ領となり、トリモンティウムTrimontium(三つの丘)とよばれた。4世紀以降は属州トラキアの中心地となった。市の中心部から、この時代の円形劇場や競技場などの遺跡が発掘されている。5世紀にフン人の攻撃を受け、7世紀からはスラブ人が定着し、830年代以降ブルガリアの版図に入った。その間、何度かビザンティンや十字軍の支配下に置かれたものの、行政・商業の中心として栄えた。1364年にオスマン帝国の支配下に入ったが、この帝国が安定期に入ると、陸路やマリーツァ川を利用してオスマン帝国の首都イスタンブール向けの産物集散地として発展し、ウル・ジャミヤを中心とする広場には多くの店が建ち並び、イマレット・ジャミヤの敷地には隊商宿も建てられた。ギリシア人、ユダヤ人、アルメニア人の商人が、また後の18~19世紀にはブルガリア人の商人や職人も、ここに本拠を置いて広く中欧、エジプト、インドにも取引を広げ、町にはさまざまな民族が行き来した。この時代の商人の館は今も旧市街に残されており、博物館などとして利用されている。

 1878年ブルガリアが独立すると、同年のベルリン会議でプロブディフはオスマン帝国支配下でキリスト教徒の知事の統治する半自治的な東ルメリア州の州都となった。1885年に同州がブルガリアに統治されると、以後、本格的な産業振興策が始まり、同年、商工会議所が設立され、1892年にはブルガリア初の産業博覧会が催された。第二次世界大戦前、従来の食品・農産物加工業や繊維産業に加えて、木工、金属加工業も発展した。社会主義時代には、重化学工業や精錬業にも力が入れられたが、公害の深刻化を招いた。

[寺島憲治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロブディフ」の意味・わかりやすい解説

プロブディフ
Plovdiv

ブルガリア中南部,プロブディフ州の州都。ブルガリア第2の大都市で,マリツァ川両岸にわたり,いくつかの丘陵を含む。ブルガリア農業の中心をなす広大なトラキア平野の中央に位置し,ベオグラード-ソフィア-イスタンブールを結ぶ国際幹線鉄道の主要結節点の一つ。穀物,野菜,果物,タバコを主産物とする農業およびその加工集散の商工業の中心地で,国際見本市開催地でもある。非鉄金属,機械部品,繊維,肥料などの工業も盛ん。新石器時代からの長い歴史をもち,前 342年マケドニアのフィリッポス2世が占領してフィリッポポリスと名づけた。その後トラキア人の町となりプルプデバと称したが,後世スラブ人がこれをプランディフと呼んだのが現名称の起源である。紀元 46年ローマのトラキア征服後トリモンティウムと改称され,経済的発達が著しかったが,815年ブルガリア領となり,1364年オスマン帝国占領後一時フィリベと呼ばれた。 16世紀以降現名称でも呼ばれるようになり,すでにこの時期から政治的,経済的,文化的一大中心をなしていた。 1877年の露土戦争後は,キリスト教徒の知事の統治するオスマン帝国領東ルメリアの首都であったが,1913年ブカレスト条約によってブルガリア領となった。市内にはトラキアおよびローマ時代の遺跡,遺物が多く,また,19世紀前半の復興期の木造家屋群を文化財として保存する広い区域がある。人口 37万 9083 (1991推計) 。

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