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チッソ[株]
第2次大戦前,世界的な化学肥料コンビナートを建設した名門企業。前身は,1906年野口遵(したがう)により,電力供給を目的として鹿児島県の山村大口村に設立された曾木電気(株)。野口は余剰電力を利用してカーバイド製造をもくろみ,08年1月日本カーバイド商会を設立,熊本県に水俣工場を建設した。同年8月両社は合併し日本窒素肥料(株)(日窒と略称)と社名を改称,本社を大阪に移した。09年フランク=カロー式による石灰窒素の製造開始。21年にはカザレー式アンモニア合成法の特許実施権を取得,宮崎県延岡で世界初の工業化に成功,同地に合成アンモニア・硫安の工場(旭化成工業の前身)を建設した。こうして硫安メーカーとしての基盤を確立し,昭和に入り朝鮮北部に進出,水力発電の会社と,その電力を利用した化学肥料会社を多く設立し,日窒コンツェルンと呼ばれた。敗戦により全資産の8割以上を占めていた在外資産を失うという打撃を受けたが,45年の末には早くも硫安の製造を再開した。50年企業再建整備法による第2会社として,新日本窒素肥料(株)となった。61年から石油化学工業へ進出,65年に現在の社名に改称。石油危機後はファイン・ケミカル事業などにも力を注いでいる。なお,水俣病の補償を行い,累積損失額は2000億円強に達する。資本金78億円(2004年3月),売上高1328億円(2004年3月期)。
執筆者:清水 敏聖 チッソ(株)の水俣工場は1927年から68年の間,アセトアルデヒド合成工程から出る有機水銀を含んだ排水をたれ流し,これによって水俣病がひき起こされた。排水中の有機水銀が魚介類に蓄積され,それを食した人々が発病したもので,すでに1959年熊本大学医学部の調査・研究によってその原因が明らかにされたにもかかわらず,チッソ側はこれを否定,政府も熊大説を採用しなかった。69年6月,29世帯112人の水俣病患者とその家族は,チッソに対して賠償請求の訴えを起こし,73年3月熊本地裁によりチッソの過失責任が認められた。87年国と県の責任を初めて認定した水俣病第3次訴訟熊本地裁の判決以後,同様の判決が相次ぎ,95年国を含めた全面的な和解が成立した。
→水俣病
執筆者:加藤 邦興
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チッソ(株)
ちっそ
1906年(明治39)野口遵(したがう)が鹿児島県下に設立した曽木電気が前身。同社は余剰電力を利用して石灰窒素を製造するため、1908年日本窒素肥料株式会社と改称し、熊本県に水俣(みなまた)工場を操業。第一次世界大戦後に宮崎県の延岡工場で合成硫安の工業化に成功したあと、昭和初期には生産の主力を朝鮮北部の興南(現咸興(かんこう))に移し、東洋一の化学コンビナートを建設するとともに、山岳地帯で大規模な電源開発を展開した。また旭(あさひ)ベンベルグ絹糸(現旭化成)など多数の関連子会社を擁し、日窒(にっちつ)コンツェルンとよばれたが、第二次世界大戦の敗戦で全資産の80%以上の在外資産を失った。1950年(昭和25)水俣工場を復旧し、新日本窒素肥料として再出発、65年チッソと改称した。しかし、水俣工場排液中の有機水銀から漁民を中心に悲惨な水俣病が発生し、深刻な社会問題となった。裁判でチッソ側が敗訴(1973)し、被害者の補償にあたらねばならず、経営は著しく悪化し、1978年に上場資格を失った。ポリプロピレン、塩化ビニル樹脂などを主力製品としているが、水俣病被害者への巨額の補償金支払いのため、国や熊本県の金融支援を受けてきた。資本金78億円(2008)、売上高1844億円(2008)。
[中村青志]
『柴村羊五著『起業の人 野口遵伝』(1981・有斐閣)』▽『原田正純著『水俣病』(岩波新書)』
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チッソ[株]【チッソ】
化学肥料会社。野口遵(したがう)〔1873-1944〕が1906年に電力会社の曾木電気,1908年に日本カーバイド商会を設立,同年,両者が合併して日本窒素肥料が発足。日窒(にっちつ)コンツェルンの中心会社として石灰窒素,硫安を製造。1950年企業再建整備法により第二会社として新日本窒素肥料発足,1965年現社名となり,石油化学事業にも進出。水俣病の原因企業として責任を問われた。水俣病被害者への補償金等の支払いで,現在でも巨額の累積損失を計上している。1970年代以降,液晶やポリオレフィン複合繊維を開発するなど,技術力は高い。本社東京,工場水俣,守山,戸畑ほか。2011年資本金78億円,2011年3月期売上高2459億円。→化学工業
→関連項目旭化成[株]
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チッソ
化学会社。1906年曾木電気として創立。1908年日本カーバイド商会と合併し,日本窒素肥料に社名変更。1921年合成アンモニアの工業化に世界で初めて成功する。第2次世界大戦を挟み発展。1950年企業再建整備法により新日本窒素肥料となる。1965年社名をチッソに変更。水俣病の責任を問われ 1973年に敗訴,補償をかかえたが 1996年和解が成立し訴訟問題は解決をみた。しかし補償が経営を圧迫。事業としてはポリプロピレンなどの分野を充実させるとともに,時計やコンピュータなどの液晶技術やバイオテクノロジー技術を開発,液晶の分野では世界の三大メーカーの一つとなった。2011年,「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づき新会社 JNCを設立し,事業財産を譲渡した。チッソは JNCの持株会社として水俣病補償業務を継続する。
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チッソ
正式社名「チッソ株式会社」。英文社名「CHISSO CORPORATION」。化学工業。明治39年(1906)創業。昭和25年(1950)「新日本窒素肥料株式会社」設立。同40年(1965)現在の社名に変更。平成21年(2009)の「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づき同23年(2011)事業再編。新設した「JNC株式会社」に事業を譲渡し水俣病に対する補償業務専業となる。本社は東京都千代田区大手町。持株会社。子会社の総合化学会社JNCを運営管理する。
出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報
世界大百科事典(旧版)内のチッソの言及
【旭化成工業[株]】より
…本社大阪市北区,主力工場延岡市。日本窒素肥料(現,[チッソ])の野口遵が1922年5月,ビスコースレーヨンの生産を行う旭絹織(株)を設立したことに始まる。また野口はイタリアのカザレー式アンモニア合成法を導入して日窒肥料(株)延岡アンモニア工場を建設,23年試運転に成功した。…
【水俣[市]】より
…中世には水俣氏の館町となり,西南戦争では山岳部で激戦があった。1908年[チッソ](株)の前身であるカーバイド工場が豊かな電力,石灰石,労働力を背景に創業され,以後工業都市に変貌していった。第2次大戦後の最盛期チッソの従業員は4000をこえ,水俣市はチッソの城下町とまでいわれた。…
※「チッソ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」