日本大百科全書(ニッポニカ) 「水俣病」の意味・わかりやすい解説
水俣病
みなまたびょう
熊本県下の水俣湾周辺地域と新潟県下の阿賀野(あがの)川下流地域とに再度にわたって発生をみた有機水銀中毒で、日本の代表的な公害病の一つである。
[重田定義]
症状と原因の確定
1953年(昭和28)ごろより熊本県南部の水俣市一帯に特異な中枢神経症状を呈する患者が多発し、死亡率も高いことが注目された。患者の症状は、求心性視野狭窄(きょうさく)、難聴、舌の運動失調による言語障害、服のボタンを留めたり水飲みや書字など日常動作の拙劣、歩きだすと急激な方向転換や停止が不可能となるほか、重症例では起立や起座も困難、手の震え、口囲や指先のしびれ感などがみられ、これらは患者の70~100%に出現した。調査によって、本疾患は水俣湾で漁獲した魚貝類を反復して多食することによる中毒症であり、毒物としては湾奥に排水を注ぐ化学工場から排出された重金属が強く疑われたが、当初は原因毒物が同定できなかった。しかし、その後、工場排水口付近の海底の泥土、魚貝類、患者の諸臓器などから異常に高濃度の水銀が検出され、さらに1961年には魚貝類および化学工場のスラッジ(へどろ)からメチル水銀化合物が検出されたことによって、ようやく本疾患の原因がメチル水銀中毒であることが判明するに至った。
阿賀野川流域の有機水銀中毒(新潟水俣病ともいう)は、1964年より1965年にかけて阿賀野川下流地域の住民に、水俣病と類似の症状を有する患者が多発したことに始まる。調査の結果、川魚摂取量と毛髪中のメチル水銀量が患者発生地区で明らかな相関を示した。メチル水銀が川魚に蓄積された理由として、熊本水俣病の経験から上流のアセトアルデヒド製造工場の排水によるものと推定されたが、1964年6月16日の新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したこともあり、確定が遅れた。しかし、長期間多量の川魚を摂取していた成人女性の長髪中の水銀量を分割的に定量分析することによって、新潟地震以前の毛髪部分に正常値を超える水銀量が検出され、その他の資料とも総合的に判断して、川魚の汚染はアセトアルデヒド工場の排液中のメチル水銀の蓄積であると決定された。
これらの二つの事件から、水俣病は他の環境汚染による公害病とは異なった性格をもつことがわかる。すなわち、アセチレン接触加水反応によりアセトアルデヒドを大量に製造していた化学工場の排水中に、反応塔内で副生したメチル水銀が持続的に流出して水域を汚染し、水中でいったん、きわめて薄い濃度にまで希釈されたメチル水銀が、水中の諸生物間の食物連鎖を経由することによって魚貝類へ高度に再濃縮され、その有毒化魚貝を反復大量に摂取した人々のなかから発生をみたメチル水銀中毒症、これが水俣病である。
[重田定義]
訴訟問題
1959年(昭和34)に熊本大学医学部の水俣病研究班が「新日窒(現、チッソ)水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀が魚貝の体内に入り、これを多食した者が発病する」という有機水銀中毒説を発表、1961年にはメチル水銀化合物の生成過程を明らかにし、汚染源が同工場であることをつきとめた。しかし、政府が公害病と認定したのは1968年であった。また、1964年から1965年にかけて、新潟県阿賀野川下流沿岸にも同じく水俣病が発生した(新潟水俣病)。これは、上流約60キロメートルにある昭和電工鹿瀬(かのせ)工場(現在の鹿瀬電工)から排出されたメチル水銀が原因であった。
新潟水俣病の患者や遺族ら77名は、1967年昭和電工を被告として損害賠償訴訟を提起し、熊本水俣病の患者と家族112名は1969年にチッソを相手に訴えを提起した。新潟水俣病訴訟は、1971年9月29日、原告側勝訴で確定し、熊本水俣病訴訟も1973年3月20日、熊本地裁において判決が言い渡され、患者側の勝訴となった。また、1970年4月から「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(健康被害救済特別措置法)が施行され、水俣病患者に対しても医療費支給などの救済措置が講じられるようになった。
1974年9月、公害健康被害補償法(1973年公布)の施行後は、第2種地域に水俣や新潟の阿賀野川下流周辺地域が指定され、患者認定が行われて、認定患者には協定に基づいて補償金が支払われている。しかし、認定の遅れや認定棄却者が多数出るなどの問題が生じ、熊本では棄却者(および死者1名)14名が第二次水俣病訴訟を提起し、1979年3月、12名が勝訴し、1985年8月16日の控訴審判決でも、行政認定を受けて訴えを取り下げた者を除く5名の原告のうち、4名が勝訴して確定した。さらに熊本では、国と県およびチッソを相手に第三次訴訟が、新潟では国および昭和電工を相手に第二次訴訟が提起され、そのほか、関西在住の被害者および東京在住の被害者も、それぞれ大阪地裁、京都地裁および東京地裁に訴訟を提起した。熊本の第三次訴訟では、1987年3月30日、チッソのほか、初めて国と県の責任が認められた。他方、刑事裁判は1988年3月の最高裁判決で、チッソの元社長と工場長の業務上過失致死罪が確定した。1990年(平成2)9月には東京地方裁判所で「公式発見後34年以上が経過してなお未解決であることは悲しむべきこと」であるとして水俣病裁判の早期解決を勧告した。その後、熊本や福岡、京都の裁判所でも同じような勧告が続いた。しかし、行政の主体たる国は和解を拒否、福岡高等裁判所は1991年9月、和解協議への参加を拒む国の姿勢を批判、1993年3月熊本地方裁判所の第三次訴訟第2陣判決で国・熊本県・チッソに対して原告勝訴とした。ついに1995年2月、自民・社会・さきがけの連立与党3党は「水俣病解決について」の解決案を示した。未認定患者1人当り260万円、被害者団体5団体に計49億4000万円の団体加算金を補償する、などとする和解案を提示、被害者側もこれを受け入れた。そして1996年5月水俣市において水俣病被害者・弁護団全国連絡会議(1984年8月結成)とチッソとの間で協定書が締結され、各地の裁判所で和解が成立した。認定患者2263人、救済対象者1万0350人(ほかに新潟関係あり)に及んだ。
しかし関西訴訟は続き、大阪高裁は、水俣病事件の高裁判決としては初めて国と熊本県の責任を認め、患者の認定についても、感覚障害に関するいわゆる中枢説(大脳皮質の損傷)を採用し、判定方法として舌および指先の2点識別覚検査を重視して、原告患者58名のうち51名について水銀中毒の罹患(りかん)を認めた。この事件は上告されたが、最高裁は2004年10月15日、原審判決を正当として国等の上告を棄却した。水俣病事件に関する初めての最高裁判決であった。その後、熊本県、鹿児島県、新潟県において、患者認定や和解に基づく新保健手帳を申請する者が増加したため、政府は「水俣病に係る懇談会」を設置して解決を目ざし(2006年報告書)、また、与党に被害者救済のためのプロジェクト・チームを設置して新たな解決案を模索したが、解決に至らず、熊本および新潟で新たな複数の訴訟が提起されている。なお、新潟水俣病については、新潟県は独自に救済条例を制定して救済問題の解決を目ざしている。
[淡路剛久]
『石牟礼道子著『苦海浄土――わが水俣病』(1969・講談社)』▽『宇井純著『公害の政治学――水俣病を追って』(三省堂新書)』▽『原田正純著『水俣病にまなぶ旅』(1985・日本評論社)』▽『水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編『水俣病裁判――人間の尊厳をかけて』(1997・かもがわ出版)』▽『水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編『水俣病裁判全史』第1巻「総論編」、第2巻「責任編」(1998、1999・日本評論社)』