スイスの宗教改革者。東スイスのトッゲンブルク地方に1月1日生まれる。ウィーン、バーゼル両大学に学び、人文主義運動の洗礼を受けた。1506年以降グラールスの教区司祭、1516年以降巡礼地アインジーデルンの司牧司祭となった。この間にエラスムスその他の人文主義者と交流を図り、スイス人文主義の中心の座にすわった。1519年以降チューリヒの司牧司祭となり、ルターの改革思想との出会い、ペストによる瀕死(ひんし)の重病体験を経て、宗教改革者になった。彼自身は、ルターから独立して改革を開始したことを強調し、エラスムス流の人文主義的聖書原理を改革の組織的発展の前提としていた。1523年のチューリヒ公開討論会の結果、福音(ふくいん)の自由説教が認められ、都市当局と改革者が協同して共同社会の道徳的再生を目ざす改革が実行された。公開討論会を開催し、都市内世論を収斂(しゅうれん)させた形で宗教改革を実施する方法は、スイス、西南ドイツ諸都市の模範となった。他方、都市当局と癒着した改革を不完全な改革とみなす再洗礼派運動も、ツウィングリ改革運動のなかから生まれることになった。彼の宗教改革は当初スイス内でも孤立していたが、1528年にベルンが改革化すると、バーゼルその他の都市も改革にくみし、カトリック勢力に対抗する「キリスト教都市同盟」が結ばれた。ついで、ドイツの新教派との同盟も企図され、その前提として神学上の不一致を調整するためにマールブルク会談が1529年に開催された。しかし、ルターとの間に聖餐(せいさん)論において一致をみず、この試みは失敗した。ルターが臨在説をとったのに対して、ツウィングリは聖体制定のことばを比喩(ひゆ)的に解釈し、晩餐をキリストの犠牲の思い出として象徴的に理解したからである。彼は、預言者的意識に基づいて人々の魂の救いだけではなく、政治の監視、社会の安寧にも責任あるものと意識し、行動した。都市チューリヒ、スイス誓約同盟のために実際的な政治的提案をし、外交政策を示したりしたが、1531年カトリック陣営との戦いに敗れ、カッペルで戦死した。
[森田安一]
『出村彰著『ツヴィングリ』(1974・日本基督教団出版局)』▽『F・ビュッサー著、森田安一訳『ツヴィングリの人と神学』(1980・新教出版社)』
スイスの宗教改革者。東スイスのウィルトハウス村の比較的富裕な農民の子として生まれ,10歳のときよりバーゼル,ベルンおよびウィーンに遊学した。その後本格的な大学教育をバーゼルで受け,1506年修士の学位を得た。1506-16年グラールスで,16-18年巡礼地アインジーデルンで司祭として活躍した。その間政治的経験としては従軍司祭としてイタリア戦争に赴き,スイスの傭兵の悲劇を目撃して,傭兵制反対論者となった。学問的にはエラスムスを知り,人文主義に傾倒し,聖書研究の基盤を築いた。19年チューリヒの司祭に招かれ,聖書講解を続けるなかでルターの影響を受けて,宗教改革の実現に努力した。彼は宗教改革の指導理念である万人祭司主義にのっとり,市参事会の面前で公開討論会を開催し,市民の合意を引き出すかたちで改革を実施した。この方式は,都市の政治的・市民的伝統に適応し,都市内の混乱を少なくして改革を導入できる方式であった。このため,スイスや西南ドイツ諸都市に対し,ツウィングリの改革方式は大きな影響を与えた。29年ルターとマールブルク会談を行い,プロテスタントの統一実現を図ったが,聖餐問題において一致をみず失敗した。彼は預言者的意識にもとづき,人々の魂の救いだけではなく,社会の安寧,政治の監視にも責任あるものとして行動し,スイス内のカトリック勢力と戦い,31年10月,チューリヒ近郊のカッペルKappelの戦で陣没した。彼の後継者となったブリンガーはツウィングリ主義を継承・発展させ,東ヨーロッパ諸国およびイギリスの改革運動にも大きな影響を与えた。
執筆者:森田 安一
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…プロテスタント諸教会の総称として使われる場合もあるが,正確にはとくにルター派に対してカルバン派の教会を指す呼称。スイスと南ドイツの諸都市は,ルター主義と若干の隔りをおく宗教改革をした(ツウィングリ,ブツァー,エコランパディウスら)。これが改革派の源流である。…
… ルターの著作はバーゼルでも刊行されて,改革はスイスにも及んだ。ツウィングリは人文主義の教育をうけたのちチューリヒの司祭となったが,聖書研究にはげむなかでこれに共鳴し,1523年1月に〈六十七ヵ条宣言〉を出して市議会に教会改革の実行を迫った。これはスイスの自立した小都市でのみ可能なやり方であった。…
…切迫するカトリック勢力との政治的対決を何とか回避すべく,メランヒトンはつとめて温和な表現をとった福音主義の信仰箇条を作成し,30年のアウクスブルク帝国議会に提出したが(〈アウクスブルク信仰告白〉),カトリック諸侯はこれを退けたので,ルター派の諸侯と帝国都市はシュマルカルデン同盟に結集し,対決に備えた。
[スイスの宗教改革]
これより先,1522年以来,エラスムスとルターの影響下に,ツウィングリがスイスのチューリヒで市政府と提携しつつ宗教改革運動を展開し,この運動はバーゼル,ベルンなどにも広がっていた。ルター派のヘッセン方伯フィリップPhilipp der Grossmütige(1504‐67)は,ドイツのプロテスタントとツウィングリ派とを合同させようと図り,29年,マールブルクの居城で,ルター,メランヒトンらとツウィングリらスイスの改革指導者との宗教会談(マールブルク会談)を開かせたが,聖餐の典礼の解釈をめぐって両者は意見が合わず,合同の試みは挫折した。…
…この13邦同盟の体制は1798年まで基本的に変わらず存続することになる。
[宗教改革と中立]
スイスの宗教改革はツウィングリ(1484‐1531)の指導のもとに,まずチューリヒで行われたが,当初は完全に孤立していた。1528年ベルン,翌29年バーゼルが宗教改革に踏み切り,勢いを増した。…
…これを〈実体共存説〉という。他方,ツウィングリは聖餐の象徴説を唱えてルターと対立し,これがプロテスタント教会統一の妨げとなった。カルバンは,ルターとツウィングリの中間的な立場をとり,聖変化は否認したものの,聖餐によって信者はキリストの体と血の効力にあずかれると主張した。…
…1529年10月1日から3日までマールブルクで開かれた。ルター,メランヒトン,ツウィングリ,ブツァー,エコランパディウスら,おもだった宗教改革の指導者が会した。15の条項において福音主義の大綱につき合意に達したが,肝心の聖餐におけるキリストの身体の臨在様式をめぐっては,遍在説を主張するルターと象徴説に傾くツウィングリの間で,ついに意見の一致を見ることができずに終わった。…
※「ツウィングリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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