テオドシウス2世(その他表記)Theodosius Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「テオドシウス2世」の意味・わかりやすい解説

テオドシウス[2世]
Theodosius Ⅱ
生没年:401-450

ローマ帝国東帝。在位408-450年。402年父帝アルカディウスからアウグストゥス位を授与され,父帝の死後7歳で即位した。治世初期(408-414)はオリエンス道長官アンテミウスが実質的統治者であった。その後も書記官長マギステル・オフィキオルム)ヘリオ(414-427)や宦官クリュサフィウス(441以後),また姉プルケリアや妃エウドクシアに強い影響力を振るわれた。同帝治下,2度の対ペルシア戦に勝利を収めたが(422,441),フン族に対しては賠償金支払いによってかろうじて和を保っていた。宗教政策では姉プルケリアの影響下に正統派信仰への統一策を推進,エフェソスにおける2度の教会会議(431,449)を招集した。312年以後の勅法を集成編纂した〈テオドシウス法典〉の発布(438)は同帝最大の功績といえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テオドシウス2世」の意味・わかりやすい解説

テオドシウス2世
テオドシウスにせい
Theodosius II

[生]401.4.10. コンスタンチノープル
[没]450.7.28. コンスタンチノープル
東ローマ皇帝 (在位 408~450) 。 402年父アルカディウス帝の共治帝とされ,その死後7歳で帝位につき,初めアンテミウス,のち姉プルケリアが摂政となった。学問,宗教の研究を好み穏和であった。その治世は外部からの侵入に悩まされ,アフリカではバンダル族,ドナウではフン族のアッチラ劫略を受けた。また彼がコンスタンチノープル総大司教に任命したネストリウスが異端問題を起し,431年エフェソス公会議で追放された。 425年コンスタンチノープル大学を創設。また有名な『テオドシウス法典』の編纂は彼の手に成る (438) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「テオドシウス2世」の解説

テオドシウス2世(テオドシウスにせい)
Theodosius Ⅱ

401~450(在位408~450)

ビザンツ帝国の皇帝。幼時には高官アンテミウスや姉プルケリアが実権を握り,結婚後は妃エウドキアも政治に関与したが,彼自身は神学や学問に没頭し,政治は有能な人材に任せた。帝国千年の防壁コンスタンティノープル城壁の拡大堅固化,コンスタンティヌス1世設置の大学の再編拡大,複雑化して混乱していたローマ法を正すテオドシウス法典の編纂は,彼の時代の事業であった。

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367日誕生日大事典 「テオドシウス2世」の解説

テオドシウス2世

生年月日:401年4月10日
東ローマ皇帝(在位408〜450)
450年没

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世界大百科事典(旧版)内のテオドシウス2世の言及

【イスタンブール】より

…この建設工事と並行して同帝は,ここに移住する元老院議員にアナトリアの皇帝御料地から土地を与え,また持家を建てる市民に国営パン工場から無償で,その他の一般市民にも廉価でパンを支給するなど,人口誘致のための優遇政策を講じた。 コンスタンティヌス大帝の新首都建設計画が後継者たちのもとで引き続き実施に移されるなかで,建設用地は手狭となり,急速な人口増大(建設後70年で4倍の20万に達したといわれる)とあいまって,413年テオドシウス2世は市域をさらに2倍に拡大して12km2とし,金角湾からマルマラ海に及ぶ全長7kmの大城壁で囲った。ただ新市域は,ビザンティン帝国の全時期を通じてすべて居住されたわけでなく,農村的景観が残された。…

※「テオドシウス2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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