ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テンプル」の意味・わかりやすい解説
テンプル
Temple, Shirley
[没]2014.2.10. カリフォルニア,ウッドサイド
アメリカ合衆国の子役スター。フルネーム Shirley Jane Temple。結婚後は Shirley Temple Black。1930年代に子役スターとして世界的人気を誇った。3歳のときダンス教室から選ばれて,短編コメディ映画シリーズ "Baby Burlesks"に出演。長編初出演となったミュージカル映画『歓呼の嵐』Stand Up and Cheer(1934)の成功を機に次々と映画出演をこなし,翌 1935年アカデミー賞特別賞を受賞した。『輝く瞳』Bright Eyes(1934)で歌った "On the Good Ship Lollipop"は有名。1935年から 1938年まではハリウッド一の稼ぎ頭となり,『小聯隊長』The Little Colonel(1935),『農園の寵児』Rebecca of Sunnybrook Farm(1938)などのヒット作を次々と生み出した。元気いっぱいの歌と踊り,えくぼ,ブロンドの巻き毛,そして映画のもつ単純で楽観的な雰囲気は,とりわけテンプルの絶頂期だった大不況時代にあってはきわめて魅力的だった。しかし 1940年代に入ると人気にかげりがみえ始める。1950年映画界を引退し,チャールズ・A.ブラックと結婚。1967年にはカリフォルニア州下院議員選挙で落選したものの,1969年から 1970年まで国連総会アメリカ代表を務め,その後もガーナ大使(1974~76),ジェラルド・R.フォード大統領の儀典長(1976~77),チェコスロバキア大使(1989~92)などの役職を歴任した。
テンプル
Temple, Sir William
[没]1699.1.27. サリー,ムーアパーク
イギリスの外交官,著述家。アイルランド議会議員を経て 1665年ブリュッセル駐在使節,68年フランスに対抗するオランダ,スウェーデンとの三国同盟締結に尽力。同年ハーグ駐在大使となったが,国王チャールズ2世の対フランス接近により 70年引退。 74年再度ハーグ駐在大使となり,77年オランニェ公ウィレム (のちのウィリアム3世 ) とメアリー (のちのメアリー2世 ) の結婚を成立させた。 79年枢密顧問官となったが,81年辞職して引退。散文体の模範として知られる多くの著述を残し,また J.スウィフトのパトロンとしても知られる。
テンプル
Temple, William
[没]1944.10.26. ウェストゲートオンシー
イギリス国教会(アングリカン・チャーチ)の神学者,カンタベリー大主教。オックスフォード大学を卒業後,各教区の聖職を経て,1929~42年ヨーク大主教,1942~44年カンタベリー大主教。その知的で清新な時代感覚をもって,宗教,哲学,社会問題について多くの論文を著し,またエキュメニズムを指導するなど,ジョン・ヘンリー・ニューマン以後のイギリスの最も影響力ある聖職者となった。主著『キリストの真理』Christus Veritas(1924),『自然,人間,神』Nature, Man, and God(1934)。
テンプル(伯)
テンプル[はく]
Temple, Richard Grenville-Temple, 1st Earl of
[没]1779.9.12. バッキンガムシャー
イギリスの政治家。 G.グレンビルの兄,ピット (大)の義弟。 1734年から下院,52年以降上院議員。 56~57年海相,57~61年国璽尚書を歴任。 61年ピットとともに下野。 66年ピットの組閣で大蔵総裁のポストを提供されたが,実権をピットが握ることを嫌って入閣を拒否。同年アメリカ植民地に印紙税を課する印紙税法の施行を主張しピットと争い,アメリカ植民地とイギリス本国との和解政策に反対した。
テンプル
Temple, Frederick
[没]1902.12.23. ロンドン
イギリスの聖職者,教育改革家。オックスフォード大学在学中にオックスフォード運動の影響を受けたが不参加。 1847年司祭となる。翌年教育省に入り,57年にはラグビー校の校長となり,古典的な中等教育のカリキュラム改編に尽力。 96年カンタベリー大主教に叙せられ,イギリス国教会の統一のために献身した。主著『宗教と科学の関係』 The Relation between Religion and Science (1844)。
テンプル
Temple
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